法眼寺(ほうげんじ)

法眼寺(ほうげんじ)

教区 第三教区
住職名 伊東充伸
本尊 釋迦牟尼仏
住所 〒690−0875 松江市外中原町141
電話番号 0852-21-6573
FAX番号 0852-21-8660
年中行事 春分の日  春彼岸法要
8月4日  盆施食会法要
9月24日  秋彼岸法要
沿革と縁起 法眼禅寺由緒略記

当山は曹洞宗圓輝山法眼寺と称し、本尊は南無釈迦牟尼仏を奉安す。
創立は約六百年前と伝うるも享保十八年(一七三四年)三月の百姓町の大火災により記録を焼失、詳細を記する事が出来ないが、「雲陽記」再建の棟札、古老の伝説等によってこれを察する。
(一) 当寺の所在地及びその変遷
当寺は元来、亀田山即ち現在の松江城山の旧地(県庁北側、椿谷)に所在し開府前における末次村唯一の寺院であったが、その後約四百年前堀尾吉晴公による千鳥城築城に伴い、当時の末次村、大橋川畔(現大橋北詰)に代替地五町歩(約三千九百七十平方メートル)を与えられ移築された。
当時の松江は大橋川を挟んで南北両分、北地を末次村、南地を白潟村と称していた。
(二) 当寺の源流
大本山永平寺より大本山総持寺、さらに兵庫永澤寺、福井慈眼寺に到り慈眼寺二世機堂長應を開山とした倉吉定光寺を御本寺となす。
定光寺三世(慈眼寺二十世)俊鷹道靑の弟子自耕道誉(慈眼寺三十三世)を開山として迎え(永享十二年二月五日示寂一四四〇没)歴代法燈連綿として今に到る。
(開山)自耕道譽(二世)寂庵清然(三世)天岩文清(四世)中山正甫
(五世)大椿正意(六世)徳光文攝(七世)宥山存道(八世)普才慈門
(九世)傳室恵天(十世)白應賢龍(十一世)中興慈観怡心
(十二世)梅巌松秀(十三世)天外自性(十四世)独隠琳英(十五世)大雲崇注
(十六世)大圓玄鏡(十七世)古月泰心(十八世)琳醸益泉
(十九世)哮山碩獅(二十世)洞巌鳳仙(二十一世)俊巌金猊
(二十二世)耕牛碓民(二十三世)水翁金牛(二十四)大心明道
(二十五世)桐林瑞鳳(二十六世)大慧文能(二十七世)法幢開闢青涯東雲
(二十八世)再中興天涯充光(現住二十九世)瑞涯充伸
開基は宇多源氏の孫、十一代佐々木太良左右衛門信綱。
法名は圓巌道輝大禅定門と称し法眼寺の山号圓輝山の由縁である。
末寺は
 松江市浜佐田町 月光山 円光寺(開山 法眼二世  寂庵清然大和尚)
 松江市黒田町  萬年山 龍雲寺(開山 法眼三世  天岩文清大和尚)
 松江市菅田町  福壽山 極楽寺(開山 法眼十一世 慈観怡心大和尚)
(三) 当寺の変遷
   亀田山より移築の後、一八二〇年(文政三年)茶町大火の災厄にて類焼。
   一時、当寺管轄の中原町土手の荒和井地蔵堂に仮移住していた時、当寺代々の篤信者で城主松平不昧公の重臣で城代家老であった朝日丹波守郷保氏が自領地の一角を境内地として寄進し、約二百年前に現在地に再建したのである。
(四) 篤信者朝日郷保氏の業績
   城主松平不昧公の重臣、朝日丹波守郷保氏は当時廃頽せる出雲の国の殖産、文化の発展に尽し御立派改革という藩政改革を成功させ出雲の国をして隆盛の域に達せしめ、二千六百石を賜り城代家老として揺るぎない地位と名誉を築いた。郷保氏は明治三十八年大正天皇が皇太子の折、松江に行幸された時、特に従五位を贈られた。
(五) 当寺の特色
① 朝日丹波守の「一人建ち」と伝えられるだけあって、壮麗を極め市内でも屈指のものである。ことに本堂御拝の屋根は国主特許にて御殿造りでありこの地方に見ぬだけではなく美の極致とも言うべき壮麗を極めている。
② 山門は楼門ではなく城門形式で一五三四年(天文3年)十六世大圓玄鏡大和尚時代に鍔淵寺より求めて移築したものである。
③ 当市橋北地区で最古の寺である。
④ 定紋は亀田山所在の因縁にて丸型亀の紋である。
⑤ 書院庭園は、自然を背景とし瓢箪型堀池を有し、四季折々の花を見、苔むした山陰屈指の名園と称せられる。
⑥ 旧所在地の縁を以って伽藍及び朝日丹波守墓碑ともに松江城に相対す。 
その他 http://blogs.yahoo.co.jp/yagumoinfo/50777452.html
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