「SDGs」の分からなさ(板倉教化主事)

先日、宗務所婦人会「みくも」の会議で、今年度の事業について打ち合わせをしていた時のことです。

「グリーンプラン活動」について話が及んだ際、私が、

「現在宗門では、グリーンプラン活動はSDGsに移行ないし内包されるようです」

とお伝えしたところ、参加者のみなさんの表情が一斉に「無」になりました。

「今までやってきたグリーンプランと、何が違うのですか?」

参加者のお一人から改めてそのように質問を受けて、私も一瞬「無」になりました。

 

「SDGs」(Sustainable Development Goals)が2015年に国連で採択された、2030年までの「持続可能な開発目標」の国際基準であることは知っていますが、私も17の目標と169のターゲット(まるで戒律!)を事細かに説明できるほど理解をしているわけではなく、

(SDGsに対する曹洞宗の詳しい経緯や取り組みについてはこちらをご参照ください)

教化主事の公職にありながら、ただ単に不勉強な筆者の、あくまでも個人的な心象だとご海容いただいた上で、正直に明かすならば、この「SDGs」という言葉、何か喉元を引っかかって、今でもすんなり腑に落ちてきていません。

 

その理由をざっとあげつらうと、

❶ファッショナブルだけど、母国語でない上に略字では、語彙としてすんなり入ってこない。(自分もよくカタカナ英語を使うくせに)

❷従来の「グリーンプラン」や「人権・環境・平和」から、「17の目標と169のターゲット」に広がってより高邁で、漠然とした印象になった。

❸従来の「グリーンプラン」や「人権・環境・平和」ではなく、どうしてもSDGsを立てなければいけない確信的な根拠を理解していない。

❹「グローバルなロマン」は「ローカルな不満」に陥りがち。

❺「平等」が過分に説かれると、バリアフルな現実とのあまりの乖離に、絶望しそうになる。

❻どうしても「開発」という言葉が引っかかる。仏教が物質的な開発に寄与する教えなのか、少し慎重に取り扱いたい。

こんなところでしょうか。

 

さて、ここまで散々言っておいてなんですが、私は現代にSDGsは不可欠なものなのだろうと受け止めています。

SDGsで掲げられた目標とターゲットは、これまでも断続的に取り組まれてきたにも関わらず、今に至って円満に達成されず持ち越されてきた、全人的な課題なのではないでしょうか。

だからパッケージを一新したりカンフル剤を投与してでも、従来の目標とターゲットを掲げ続けなければいけなかった。その意味でも「ファッション」に似ています(衣装は変わっても、服は着続けなければいけない)。

そもそも、発効からすでに6年を経過した現状を見て、2030年までに「17の目標と169のターゲット」が達成できるはずがない(と思う)。

だとするならば、達成よりも目指すことが大事だと言えそうで、そういう意味でも、正に「戒律的」(解釈の是非はしばらく置く)だと言えそうです。

 

かつて、ドイツ出身の経済学者E・F・シューマッハー(1911-1977)は、1973年に上梓した『スモール イズ ビューティフル』で「仏教経済学」を提唱されました。

シューマッハーは大量生産・大量消費の拝金的・唯物的な生活文化に対して、仏教の教えに基づいた「簡素(小欲知足)と非暴力(現代で言えばハラスメント)」を原則とした、地産地消による適正規模の消費(中道)を説いています。さらには仏教は樹木を大切にするとして、再生可能エネルギーの可能性についても言及しています。

 

そう、現代のSDGsの内容と大変類似していたのです。

そしてその源泉となった仏教はおよそ2500年の歴史があり、人間の文明的な生活に「気づき」を示し続けました。

 

さらにシューマッハーと類似して、インド独立の父と言われるマハトマ・ガンジー(1869-1948)は、「隣人の原理」を説いて、過度のグローバル化に警鐘を鳴らしました。

(参照:『ポストコロナ 地産地消で ガンディーの「隣人の原理」』 中島岳志)

 

かつて二人の賢者が、グローバルな課題の克服に、ローカルな手段を処方箋として示したにも関わらず、世界は今でもそこにたどり着いていないように見えます。

未だに私たちは大量消費を続けていますし、都市には人が流入し続け、格差は広がっています。

 

SDGsの「17つの目標と169のターゲット」は、緻密に構成されているようで、その実、我々の生活実感の先にある理念的なグローバリズムの流動を基調としており、具体的にローカライズされていないことが、分かりにくさや届きにくさに繋がってるのではないでしょうか。

 

これは一つの例え話ですが、広く公共心を持ったつもりでボランティア活動に取り組んで、活動先では大変評価されたとしても、家庭ではあまり快く思われない場合が多い。家財を持ち出すし、家にいないことが多くなるからです(筆者の実体験)。

そういう「灯台下暗し」に似た矛盾を、SDGsにも感じます。

 

かといって、SDGsは決して無意味ではありません。先にも述べたように、これらは先人から持ち越されてきた課題の累積と再解釈だからです。

私たちは、まずSDGsの目標とターゲットをいずれかに絞り込んだ上で、自身の生活実感との間に、それぞれが梯子をかけて登っていく努めが必要なのではないでしょうか。

 

その意味において、個人的には、曹洞宗として最優先で取り組むべきは「ジェンダー平等」だと思います。

そしていくつかのターゲットの具体策として、女性住職の育成と戒名のジェンダーフリーに尽力すべきです。

そもそも、LGBTに象徴される全人的な性的課題の克服に際して、SDGsで掲げられた男女差の解消は、その登山口でしかありません。

しかし、大変不本意なことではありますが、我が宗門の現状はジェンダーギャップ指数が、ほぼ100%。それが旧来から持ち越されてきた課題であることを、すでに青年僧の多くは気づいていて、全国曹洞宗青年会の広報紙では、再三そのことが提起されています。(参照:『sousei』181号193号

そして表現や音量の差こそあれども、筆者は10年以上前に全曹青へ出向在職の当時から、全曹青がそういう問題意識を発信し続けていたのを見ていますし、前期には尼僧である飯島惠道師が顧問を勤め意思決定に関われたのも、そういった取り組みの一環だと思います。

仮にSDGsが2030年に失効しても、「雨垂れ石をも穿つ」思いで、こういった実績の積み上げを続けていくべきだと思います。

 

文頭、婦人会の会議が一瞬「無」になったのは、従来の課題が克服されていないにも関わらず、次の「新しい」課題が設定された。そのことへの戸惑いの表出であったと、私は受け止めています。

 

遠くのグローバリズムよりも、まずは足元の課題を克服すること。

「グローカル」なる造語もありますが、「脚下照顧」の姿勢と取り組みこそが、SDGsへの手がかりだと思います。(教化主事 板倉)

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