常榮寺(じょうえいじ)

常榮寺(じょうえいじ)

教区 第十教区
住職名 吉長義親
本尊 釋迦牟尼仏
住所 〒690−2104 松江市八雲町熊野2538
電話番号 0852-54-0451
FAX番号 0852-54-0726
各種講座
  • 坐禅会7月 第3日曜日
  • 写経2月 最終日曜日
  • 法話等研修会法話を聞く会(3月21日、7月15日)
    常榮寺女性の集い 総会・研修会等
    普済寺観音講    総会・研修会等
永代供養塔 あり
年中行事 修正会(檀信徒参詣)
春秋彼岸会
3月21日  大般若法会
7月15日  大施食法会
7月夏休み最初の日曜日  子ども坐禅会
観音霊場巡拝
歳末すす払い
沿革と縁起  当寺の開基は「不白院殿華屋常榮大居士」であり、これは出雲尼子3代当主経久の嫡子「尼子政久」の法名である。尼子政久は、武芸に勝れて、笛が上手で詩歌、管弦に長じた花実相応の大将であったとされる。この政久は、永正15(1518)年9月6日に阿用城で戦死したといわれる。

「阿用城の戦い」
 永正15年8月阿用城主(大東町東阿用磨石山)桜井入道宗的が尼子経久の伯耆攻めの手薄に乗じて叛旗をひるがえした。これに対し経久は嫡子民部少輔政久に兵七千騎を与えて攻めさせた。しかし城は要害堅固にして兵糧も豊富にあるため持久の計をたて、本陣を固め、付城を5ヵ所築き、遠攻めの戦法を取った。付城に高楼を築き、城内を監視する一方、城下の稲を刈り兵糧攻めとした。政久は横笛の名手で、夜になると、楼上に登り月に心を澄まし笛を吹き、詩を吟じて悠々たる態度を示した。この笛を聞いた桜井宗的は、これは御所にて笛の役を勤められたと聞く政久に違いないと白昼に竹薮に目印をし、笛の音のする夜を待ち、9月6日、自慢の大弓を携え、薮に身をひそめ、月光の中に浮かび上がった笛の主めがけて矢を放った。その矢は見事に政久の咽喉に命中し、26歳の命を絶った。これを聞いた経久は七千余騎の陣頭にたち、三男興久に二、三千騎で大手から伺わせ、敵が大手に集まるや、二男国久に三千騎を後山から、横道、森脇に一千騎を二手に分け城の左右から攻めさせ、城中へ殺到した。宗的は弓をなげすて、十文字槍で戦ったが、ついに討たれてしまった。

「常榮寺の建立」
 阿用城の戦いで命を落とした政久の遺骸を、家臣の森脇治部大輔勝正が葬ったとされ、常榮寺後山の宝篋印塔が政久の墓とされる。父経久は桜井宗的を滅した後、霊を慰めるため、永正16年6月にこの地に一寺を建立し、法号にちなんで山を不白山(不白峰)と号し、寺を華屋常榮禅寺と名付けた。そして、長門国深川(山口県長門市)の大寧寺の蟄山道䖝和尚を請じて開山とした。

「寺の記録」
・元文元(1736)年 本堂 四間に六間
・明和2(1765)年 庫裡造立
・文化5(1808)年 本堂再建(現在のもの)             
・昭和9(1934)年 庫裡改築
・昭和22(1947)年 位牌堂新築
・昭和31(1956)年 本堂屋根改修
・昭和32(1957)年 報恩授戒会結制(西堂戒師 大本山永平寺副貫主 福井天章老師)
・昭和40(1970)年 鐘楼新築 梵鐘安置
・平成16(2004)年 本堂・観音堂・鐘楼改修
             位牌堂・庫裡新築
             晋山結制(現住25世)

「寺紋」
常榮寺の寺紋は四つ目菱であり、これは本寺の寺紋ではなく、開基である政久の尼子家の家紋である。

「本尊と脇侍」
本尊「釋迦牟尼仏」、脇侍「文殊菩薩、普賢菩薩」である。

「普済寺」(境内建物)
 普済寺は、平安末期より天狗山の中腹御堂谷にあった、天台宗「那智山普済寺」であったが、のちに宮内に移された。しかし、明治政府の無檀家寺院は廃寺するとの指示により、寺名をやめ堂号とし、明治44年、常榮寺境内の現在地に移転し、常榮寺の観音堂となった。本尊「十一面観音」脇侍「毘沙門天王、不動明王」

「常榮寺歴住和尚」
開基 不白院殿華屋常榮大居士
開闢 蟄山道䖝大和尚
二世 桂峯存枝大和尚
三世 即翁(示偏に亘)心大和尚
四世 千山祖秋大和尚
五世 圓光自明大和尚
六世 普照大光大和尚
七世 月光窓前大和尚
八世 月笑不見大和尚
九世 洞光天秀大和尚
十世再開山 天公誾達大和尚
十一世 洞門定水大和尚
十二世 一鑑寂峯大和尚
十三世中興 然室祖湛大和尚
十四世 普観海天大和尚
十五世 祖天無外大和尚
十六世再中興 雪立祖庭大和尚
十七世 鐵門光開大和尚
十八世 祖暁智湛大和尚
十九世 瑞雲金龍大和尚
二十世 大峯金丈大和尚
二十一世 大秀金琳大和尚
二十二世 月犀大圭大和尚
二十三世 月琴撃鳴大和尚
二十四世 耕雲専宗大和尚
二十五世(現住) 吉長碓要義親和尚 
その他 出雲観音霊場第16番札所(普済寺)
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