龍昌寺(りゅうしょうじ)

龍昌寺(りゅうしょうじ)

教区 第三教区
住職名 星野秀暢
本尊 釋迦牟尼仏
住所 〒690-0063 松江市寺町136
電話番号 0852-21-6256
FAX番号 0852-21-6216
各種講座
  • 観音講毎月17日(18日の場合もあり)
墓地の募集 あり
永代供養塔 あり
年中行事 1月1日〜3日  修証会 大般若転読
春秋彼岸法要(入りの次の日)
8月1日〜15日  盆棚経
8月6日  盆施食法要
8月23・24日  地蔵盆大祭 施食法要
沿革と縁起 龍昌寺は、堀尾吉晴が城下町造りにあたって、寺院を集めた寺町のなかの北寺町、それも白潟本町に近い一角にある。宍道湖底から現れた秘仏十一面観音像とラフカディオ・ハーンゆかりの地蔵・羅漢様で知られている。
足利時代末、意宇群白潟の湖畔、今の白潟本町花屋小路に庵を結ぶ世捨て人がいた。かつて角新左衛門尉貞之と名乗る武将であった。ある年、戦に敗れて世の無常を知ったのか、家を弟に譲り、諸国をさすらったのいこの湖畔に住み着き、白雲翁龍昌吟庵主と自ら名乗り、隠遁の生活を送っていた。
小舟を湖上に浮かべての魚釣りを楽しみにしていたが、ある時、湖底で怪しくも金色に輝くものを見つけた。漁師に網を打たせてかかったのが荘厳な金箔張りの厨子であった。
中には金象眼を施した高さ11センチばかりの木彫りの十一面観音坐像が、金色の光背と龍唐獅子、牡丹をあしらった台座に乗り、傍らに脇立の毘沙門天、吉祥天の二体がおさめられていた。
仏像との不思議なめぐり会いに仏縁を知った庵主は、文正元年(1466年)庵近くに花屋
寺を建立、観音像を安置して仏に仕える日々を送り、文明5年(1473年)80数歳で没したと伝えられている。
その後、寺名を開基の庵主にちなんで白雲山龍昌寺と改め、いつの年代か不明だが、現在地に移った。開基ゆかりのものに、木彫り彩色の開基和尚坐像、本堂前庭ぎわに墓石あり、そ家系花本家も松江市竪町に現存している。
観音像は湖底から現れて以来、33年ごと開帳の秘仏とされてきた。天保6年(1834年)暮れの松江藩南大火、昭和2年暮れと、同24年夏の白潟大火など度重なる大火で、本堂が炎上したにも関わらず焼失を免れ、今も本堂に安置されている。
毎月17日が観音様の功徳をたたえる観音講の日である。大正はじめから昭和はじめにかけては、観音供養が最も盛んに行われた。のぼりや五色の吹き流しがはためく境内には、近郷近在からの参拝客があふれ、沿道には露店がずらりと立ち並んだという。
そのころ、かつて荒川亀斎に刻ませた観音木像五体を寺に置き、その木像をくじ引きで当てた講員が家に持ち帰り、向こう一年間安置し、家運の繁栄を祈った。
ラフカディオ・ハーンが、初めてこの寺を訪れたのは、松江赴任翌月の明治23年9月28日であった。ハーンは庫裡前に立つ石地蔵に目をとめると、しばらくは立ち去ろうともしなかった。
人の霊魂を浄土に導き、とりわけこどもには慈愛を注ぐという地蔵のいつくしみの表情が、高さ1メートルばかりの石像に、見事に刻まれていたからである。
当時、松江市田町(のち白潟本町に転住)で瑪瑙(めのう)商を営んでいた長岡九右衛門が、全年8月に亡くなった娘の菩提を弔って、墓石がわりに建立したものであった。
長岡家は代々、玉石の細工師で、亀斎が彫刻に用いる瑪瑙、水晶を調達していたので、亀斎はよく同家に出入りし、九右衛門やその子茂一郎とも親しかった。
たまたま、地蔵が石工によって刻まれているのを知った亀斎が、「自分にやらせてくれ」と、顔の部分だけノミをふるったと伝えられている。
この地蔵は昭和20年ごろまであったが、松江地方を襲った台風で、東部が欠け落ちたので、同23、4年ごろ亀斎地蔵の写真を参考に、和田見町の石屋で刻んだのがいまある地蔵である。
初代地蔵が機縁となって、ハーンは同僚西田千太郎の案内で、横浜町の亀斎宅を訪れ、その腕前と名人気質に傾倒した。ハーンは龍昌寺にある地蔵様と同じような彫り物を期待して、亀斎に彫刻を頼み、黒柿を使って高さ30センチばかりのが出来上がったが、これはあまり気に入らなかったという。
龍昌寺門内の道路わきに、聖者十八羅漢の石像が、不動明王石像を囲んでおかれて居る。ハーンはこの羅漢の作りにも関心して、訪れるたびに前にたたずんだという。
昭和6年、松江を訪れた民芸運動の創始者柳宗悦も、この羅漢を見て「すばらしい出来栄えだ。なかでも二体がよく手元に置きたいくらいだ」と語っている。
龍昌寺の過去帳に「当寺の羅漢は、天明6年(1786年)7月に建立を思い立った。しかし公儀から差し止めがかかった。石屋夫右衛門の作である」と書かれている。
松江の石屋仲間では別に、「松江から江戸へ出て修行した石工江戸勝の作である」との言い伝えがある。夫右衛門と江戸勝が同一人であったか、どうか明らかではない。
不動明王は霊験あらたかな仏として信仰され、不動明王が好まれるというおもちゃの刀を供えて願い事をする人が跡を絶たない。
本堂正面の延命地蔵は名工石谷為七の作と伝えられている。
その他 小泉八雲ゆかりの石仏羅漢奉安
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