『祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり・・』~Buddhist Circuit Trainの旅~(堀江副所長)

前回からの続き!

 今回の仏跡参拝の最後の訪問地は、長く釈尊が滞在され布教をされた舎衛城(しゃえいじょう)のシュラバスティーに向かいます。
 列車はゴーラクルブ(Gorakhpur)からシュラバスティーまでは約200km足らずですので、
約3時間あれば十分に到着しますが、深夜に出発して時間調整のために途中で長時間停車をしながらシュラバスティー到着9時に合わせて運行されます。もし、バスなど陸路ともなると道が全く整備されていませんので6時間以上バスに揺られる事となりますが、我々は車内で時間を気にする事無くゆっくりと熟睡のはずですが、インドの鉄道の踏切には日本のように警報器や遮断機などの装置はほとんどありません。列車の通過を知らせるためには絶え間なく汽笛を「ピーヒョロヒョロ!、ピーヒョロヒョロ!」と鳴しっぱなしで走行しますので安眠妨害になる人もいると思いますが、私の私感は北インドの大草原を力行する列車とジョイントの心地よい音は眠気を誘う子守歌のようでした。
 ところで、ゴーラクルブで列車編成が逆向きなっていた事に気がつきましたが、12輛編成を全て逆向きに進行方向を変えるのには大きな三角線か迂回路線しか考えがつきませんが、インドの鉄道地図を見ても網の目のような路線では全く理解出来ませんでした。おそらくニューデリー到着時に出発時と同じ向きにするための措置だと思われます。日本では列車の運転信号やATS(緊急時の列車停止装置)などの都合で運転台の進行方向を一定にする必要がありますが、インドではこれだけ路線が網の目のようになっている為に別種の安全装置があるようです(?)。
 翌朝には、朝食の前にモーニングティーが各室に配られてゆっくりと車内で朝食の後、いよいよ祇園精舎に向かいます。

釈尊が寝起きをした香堂跡

祇園精舎の中に立つ菩提樹

 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)とは古代インドのコーサラ国の首都サヘートマーヘト(拘薩羅國舍衞城)の祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)が正式な名称で、舎衛城(しゃえいじょう・現シュラーヴァスティー)の一画に釈尊の教化遊行のために、祇樹(ジェータさんの森に)に長者であった給孤独(ぎっこどくさん)が建ててくださった園(お寺)となります。それを縮めて祇園(ぎおん)と呼びます。さて、この祇園と京都市内にある祇園とは何らかの関係があるのでしょうか(?)。
 この祇園精舎には釈尊も何度となく訪れて19回の安居(あんご・90日間の雨期の修行)修行をおくられたとされ、釈尊伝にも釈尊が教化布教を一カ所に止まった地としては最長の地とされています。精舎内には釈尊が寝起きをした香堂や大規模な僧院跡などの当時の遺構や菩提樹(何代目かの)などがあり、また、釈尊の初めての比丘尼(びくに・女性の出家修行者)として、育ての親である実母マーヤー夫人の実妹の養母マハーブラジャパティーの精舎もあります。私が訪れた時にはタイから上座部系の僧侶が祈りをささげたり瞑想にふけっている僧侶の姿がたくさんありました。


日本人が寄進した祇園精舎の鐘と記念碑

 また、この祇園精舎の回りにはタイ寺などの上座部系やチベット寺などり大乗系の寺院がたくさん有りますが、日本人がインドにあるお釈尊の聖地巡拝をはじめた頃、祇園精舎に鐘がないことを残念に思われた有志の方々により、今から33年以上も前に「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり・・・・」ではじまる平家物語にちなんで祇園精舎に日本風の鐘が贈られました。現在は、インド政府に帰属して管理人もおり自由に撞く事が出来ます。
 このところ連日の夜行列車となりましたので、夜行列車が続く場合は近くのホテルをデイーユース(日中使用)として昼間利用ができるように手配がされており、シャワーを浴びたり昼寝をしたりと自由な時間となります。元気な人は町中へ散歩やおみやげ物を探しに出る人もいましたが、私はホテルの椰子の木が並ぶプールサイドでマンゴジュースを飲みながら昼寝(知らないうちに寝込んでしまった!)でした。
 ただ、今回のツアーでは残念な事にネパールのルンビニやサヘートマーヘトまで来ていながらどうしても行きたかった場所がツアーの訪問地にありませんでした。そこは釈尊(ゴ-タマ・シッダルタ)が幼少期を過ごし、出家の決意をした四門出遊の故事やアシダ仙人がゴ-タマ・シッダルタの将来を予言した場所などが残っているはずの、当時は城壁国家であったシャーキャ族のカピラ城(カピラヴァストゥ)跡をどうしても訪れてみたかったのです。しかし、シャーキャ族は北方アーリア人系と言われ、カピラ城はごく小国で後にコーサラ国の大軍により滅亡されたと言われています。その後、5世紀頃中国の法顕(ほっけん)や7世紀頃には玄奘(げんじょう)も訪れており、「人はいなく、荒れ果てていた!」と法顕伝に書き残しています。このカピラ城は釈尊涅槃後約1000年に渡って仏教徒の巡礼の地であったが、その後、インドではヒンドゥー経やイスラム経の信仰が盛んとなりインド人の心の中から釈尊の存在すら忘れられてしまい14世紀頃にはカピラ城の場所さえも分からなくなっていました。

ルンビニとカピラ城跡の位置関係・その真ん中には国境が!

 ところが、インドのイギリス植民地時代にイギリスの考古学者により、紀元前268年頃に即位し後に釈尊の教えに帰依したマウリア王朝第3第王のアショーカ王(漢訳・阿育王)時代の古典インド語であるブラーフミ文字の解読により、ルンビニ(釈尊出生地)に建てられたアシーカ王の仏塔の碑文解読により隠れさられていたルンビニが1896年に確定されると共にカピラ城の場所も探索対象となった。そこで、カピラ城探索のための重要な文献となったのが5世紀にインドを訪れた中国人の法顕(ほっけん)の「法顕伝」と7世紀に訪れた玄奘(げんじょう)の「大唐西域記」であった。5世紀に訪れた法顕はカピラ城を訪れており、「ルンビニはカピラ城東方50里にある!」と記されており、ルンビニの場所が確定されれば、ルンビニ西方50里にカピラ城がある事になります。しかし、玄奘の「大唐西域記」の記述が法顕と方向や距離が幾分の誤差があり、最近の探索によりその場所はネパール領のティラウラコットにあった城壁国家の跡ではないかとされますが、残念ながら釈尊と直接繋がる物的証拠が発見されていません。ところが、ほぼ同じ頃にインドのピフラーワにあったストゥーパより仏舎利と思われる遺物の発見と釈尊と繋がる多くの遺物が発見されました。ただ、城壁国家と思しき城壁などや僧院跡がまだ発見されていません。さて、釈尊が幼少期を過ごしたシャーキャ族のカピラ城跡については、ネパール領ティラウラコット説とインド領ピフラーワ説とあり、ネパールとインドを巻き込んだご当地合戦となっています。しかしながら、どちらがカピラ城であれ釈尊が何らかの形で関わった事は事実であり次のインド仏跡参拝の候補地を残した事になりました。

ネパール領ティラウラコット(ブッダの世界・学研社より)

インド領ピフラーワ(ブッダの世界・学研社より)

 さー!これで北インドの仏遺跡ツアーの日程は終了した事になります。今夜も深夜シュラバスティーを出発して、明日はインドを訪れたなら外す訳にはいかない世界遺産中の世界遺産「タージマ・ハル」に向かいます。

次回(最終回になるはず!)に続く


副所長 堀江晴俊

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