弘長寺(こうちょうじ)

弘長寺(こうちょうじ)

教区 第二教区
住職名 森田裕光
本尊 聖観世音菩薩
住所 〒699−0404 松江市宍道町東来待854
電話番号 0852−66−0128
メールアドレス yussh555@web-sanin.co.jp
ホームページ https://kochoji.akibare.ne.jp/
各種講座
  • 梅花流詠讃歌月1回
  • 坐禅会毎月第1木曜日
墓地の募集 あり
永代供養塔 あり
年中行事 4月 大般若
8月 施食会
沿革と縁起  当山は鎌倉時代弘長3年(1263年)、関東より赴任した地頭・藤原満資が、主君である北條時頼・重時の菩提を弔うため建立した。
 満資自筆文書によれば、約6mの大阿弥陀如来像とその堂宇を造立し、田7町他広大な山野を寺院敷地として寄進、念仏僧30名を居住させた。
 寺院名の由来は、鎌倉時代の年号からつけられたものである。
 現在は禅宗の曹洞宗(福井・永平寺、鶴見・總持寺両大本山)であるが、開創当時は浄土宗と思われる。
 当山に残る痰氏・碧信宗文書によれば、開創およそ150年後、實庵見貞大和尚(永享3年・1431年示寂)が、当山2世住職として教化布教の多大な実績を残したと記されている。
 又、当山僧・宗順が奥出雲・三沢氏に宛てた書状が存在するが、實庵和尚は亀嵩・總光寺4世であり、同時に大東・弘安寺3世、奥出雲・日光寺開山も務め、広域に活躍された高僧であった。
 その總光寺の開山・不見明見禅師は三沢氏2代目城主の息子で、後に曹洞宗大本山總持寺19世に拝請された名僧であった。
 故に、当山は實庵和尚を通じて15世紀初頭(室町時代)より三沢氏との深い関わりを持ち、その当時から曹洞宗であった。
 17世紀末(江戸時代初期)、当山は尼子氏菩提寺である松江市・曹洞宗洞光寺の末寺となり、洞光寺2世天麟星壷大和尚を御開山として勧請し、現在まで連綿と法灯が継承されている。
 弘長寺は、洞光寺末寺・24ヶ寺中の四門首(四本柱)の1つである。
 鐘楼堂は、昭和60(1985)年、人間国宝香取正彦氏設計・日光の材料・日光の宮大工によるもので、玉造・長楽園・故長谷川正司社長の一建立である。
 平成16(2004)年9月、阿弥陀堂(位牌堂)改築に合わせ阿弥陀如来坐像を修理した際、胎内より夥しい墨書や経筒等、極めて貴重な資料が発見された。
 仏像は、玉湯・蓮光寺を兼務していた菅原・観音寺住職・秀英が天文3年(1534年・織田信長誕生年)に作製したものであり、墨書銘から宍道氏地頭・武士・僧俗等地域一丸となって平安祈願を込め制作したものと判明、同平成16年12月、宍道町(現在は松江市)有形文化財指定となった。
 江戸時代初頭の阿弥陀堂に関しても文書が残っており、時の住職・薫浦和尚が阿弥陀堂の荒廃を嘆き、松江藩主・松平直政公に直訴懇願し、藩費で阿弥陀堂を再建したと記録されている。
その他 墓地の応募は檀信徒のみ。
永代供養塔は宗派問わず。
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