慶用寺(けいようじ)

教区 第八教区
住職名 久我卓央
本尊 聖観世音菩薩
住所 〒699−1106 雲南市加茂町大字加茂中1168
電話番号 0854−49−6633
FAX番号 0854−49−8350
永代供養塔 あり
年中行事 1月  修正会
4月  大般若会
8月  施食会
12月  除夜の鐘
沿革と縁起  当寺は「雲陽誌」によると創立は寛永一九年(1642)と伝え、当初は日置山と号する小庵で現在地に建立されていたとある。
 開山は、慶用寺二世盡安快呑和尚の要請により、長谷寺三世の笑厳珠誾和尚を勧請開山として、長谷寺の末寺となった。
 開基は本家黒田(和泉屋)元祖の三代目黒田勘十郎常富である。
 初代の勘十郎あ宇喜多秀家の小姓であったが、関ヶ原の合戦に敗れ主君に従って薩摩の島津氏を頼り入国しようとしたが拒否され、主君秀家より菊一文字の短刀を形見としてもらい、全国を流浪した末に大東下分(だいとうしもぶん)において帰農した。二代目市郎右衛門、三代目勘十郎常富は、加茂中村において新田を開墾して財産を作っったので、慶用寺二世盡安快呑和尚の要請によって当時の家居の鬼門にあたるところに庵があったのを改装して、正倉山慶用寺とした。寺の建立に際して常富が主として尽力したため、常富を当寺の開基とした。彼は寺の裏山の頂上を寺の墓地とし、その下を黒田家の墓地とすることでのよって、鬼門を浄地として自家の興隆を祈った。
 二世盡安快呑和尚は元禄六年(1693)に没し、黒田勘十郎常富は正徳元年(1711)93歳をもって没するにおよび、以来寺運振るわず、享保十三年(1728)には寺の一部を焼失し、益々衰運を極めた。四世江國文律和尚が再興を図り、寛保二年(1742)米200俵を集め、檀頭黒田氏にたくして再建を計画した。しかし、文律和尚はたまたま、海潮の弘安寺へ転住した上、宝暦四年(1754)近隣火災のため当寺も類焼した。そこで文律和尚が再び当寺に帰山し、和泉屋三代黒田市郎右衛門恵次の全面協力と、下郡の木次屋初代木村弥三左衛門元儀の外護により、宝暦六年(1756)7月に落慶したことから、文律和尚を当寺の中興としている。
 その後黒田氏の盛隆とともに黒田氏の恩顧を受けた家が皆檀家となり、年々増加したが、時代の経過とともに本堂の衰微著しく、十二世大眠穏龍和尚が弘化三年(1846)に本堂建替に着手、翌年の弘化四年(1847)本堂上棟、その廃材を持って庫裏を完成させた。その後大正三年(1914)に簸上鉄道の用地として境内の一部を提供し、その代金と檀家の寄付、十七世覚英和尚の私財を合わせて、大正九年(1920)に庫裏を新築した。
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