妙心寺(みょうしんじ)
教区 | 第一教区 |
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住職名 | 藤原玄聖 |
本尊 | 薬師如来 |
住所 | 〒692−0622 安来市広瀬町宇波504 |
電話番号 | 0854-34-0033(観音寺) |
年中行事 | 1月4日 新年祈祷 8月16日 盆供養 |
沿革と縁起 | 開山 竹堂利賢大和尚 延徳元(1489)年頃広瀬富田城城主尼子経久公は宇波を軍戦道具工場地とするため力を注いだ。 命を受けた宇波城城主馬木彦六左衛門は兵器工場と共に滝ノ上寺床に寺を設けたが尼子氏衰退と共に無くなってしまった。 寺が無くて不便との声が高まる享保年代、水田原に伯太町井尻高江より伝四郎なる者が開墾入植していた。丁度高江に花園天皇の苗裔落飾で妙心尼という人があり、当時阿弥陀如来と釈迦如来との取り替えにより阿弥陀如来像が諸方に捨てられており妙心尼は拾い集めて供養している尼様であった。 高江屋伝四郎は宇波へ来て寺を興して欲しいと頼み、妙心尼は阿弥陀仏を一体連れ来たって安宗山に寺を建て妙心寺が始まった。その時援助したのが加藤清正の子孫中本屋五代目加藤惣右衛門と母里屋2代目新石儀兵衛である。 数十年後、権力者の圧力により広瀬洞光寺に住職を譲らなければならなくなり、妙心尼は居場所に困ったが、高江屋伝四郎は水田原に小庵を設け、延享元(1744)年、妙心尼と阿弥陀仏を引き取った。以後、妙心寺は洞光寺末寺となる。 明治15(1882)年、宇波の鋳物庄屋が美保関の美保神社に大手洗鉢を奉納したが、この鋳型は隠岐ノ国の松材で松江の名彫刻師荒川亀齋の作で、現在妙心寺本堂須弥壇として使われている。 本堂と庫裡は明治36(1903)年、15世代失火により焼失し翌年再建した。近年檀信徒の信心昂揚により境内諸堂等の整備復興が進みつつある。 |