洞光寺(とうこうじ)
教区 | 第一教区 |
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住職名 | 池上幸秀 |
本尊 | 釋迦牟尼仏 |
住所 | 〒692−0404 安来市広瀬町広瀬1431 |
各種講座 |
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墓地の募集 | あり(残りわずか) |
永代供養塔 | あり |
年中行事 | 1月1日 大般若経転読祈祷 3月彼岸中日 彼岸会塔婆諷回向 4月18日 鎮守秋葉火防祭 7月24日 鎮守天神祭大般若会 10月1日 御開山忌・山門施食会 12月31日 除夜の集い |
沿革と縁起 | 洞光寺の開創年代には諸説あるが、最も古い年代が文正年中(1468)である。備後国高野山金尾に尼子清定公によって開創されたと思われる。 また、清定公(経久公)は、出雲国月山富田城北麓の小山を旧地金尾と名付け、高野山より移築したのを文明年中(1469〜1488)とする記録もある。 経久公は、伯耆国定光寺4世大拙眞雄和尚に深く帰依し、軍務の暇があればしばしば参禅して教えを乞うていた。富田金尾に洞光寺開創に際しては、師である大拙眞雄和尚を拝請して開山第1世となした。以後、永禄9(1566)年、尼子義久公が毛利の軍門に下り、富田城を明け渡すまで4代に渡って定光寺より住持僧を迎えている。近隣の国人を従え、中国11州に覇を唱えた経久公は、天文10(1541)年11月13日、84歳で富田城に卒した。4世竹堂利賢和尚の世代であった。 慶長16(1611)年、堀尾吉晴公による富田城の松江移城の際、洞光寺も移転した(慶長13年)。その後、松江にも残ったが、松江初代藩主・松平直政公次男近栄公が広瀬藩を開く頃、再び金尾の地に帰り、清定・経久両公の墓所を守ることになったと思われる。 金尾洞光寺は、度重なる大洪水に大打撃を受け、寛永年中(1624〜1643)に現在地へ移転を余儀なくされた。明和6(1769)年の火災によって伽藍を全焼、古記録も焼失してしまった。現在の本堂は、寛政元(1789)年に落慶入仏供養をされたもので、二百数十年の風雪に耐えている。8代広瀬藩主・松平直寛公に、「山陰の禅窟」と謳われ、近代に至るまで曹洞の禅風を存分に揮った。 |
その他 | 寺宝 尼子経久公寿像 尼子勝久公持用の矢の根 「山陰禅窟」広瀬藩8代藩主松平直寛公の書 他、宗門典籍・書画多数 |