日光寺(にっこうじ)

日光寺(にっこうじ)

教区 第六教区
住職名 村上光言
本尊 釋迦牟尼仏
住所 〒699−0722 出雲市大社町北荒木402
電話番号 0853−53−0743
FAX番号 0853−53−0743
各種講座
  • 梅花流詠讃歌毎月
    第1水曜日(午後1時30分~午後3時)
    第4水曜日(午後7時30分~午後9時)
  • 坐禅会毎月第1土曜日(午前6時30分~午前7時30分)
墓地の募集 あり(残りわずか)
年中行事 1月1日~3日  三朝祈祷
3月  初午祭
5月第3日曜日  花祭り(仏教会合同)
8月9日~15日  お盆棚経
8月19日  施食会
8月第4日曜日  観音祭
歳末助け合い托鉢(仏教会合同)
沿革と縁起 開山 禅山元嶂大和尚 享保12(1727)年3月5日

日光寺棟札大意
 それ出雲國神門郡北荒木村は、40年前にできた村である。そこでこの地には、四方から多くの人々が集って来て、新に住家を作り住むようになったけれど、まだ寺がないので誰も不足に思っていた。
 そこで新田奉行の岡又右門昌殿は、いつも信仰している仏様がおいでにならないのを残念に思い、寺を建てようと10数年前から思っていた。そういうわけで、岡氏は私に、もと寺があったのが荒廃して、今は名だけが残っているような所はないかとたずねた。幸いに出雲国大原郡牛尾にある、弘安寺の末寺の日光寺が、その通りであった。そこでこの寺をたのんで岡氏に与えることにした。
 そこで松江藩の寺社奉行所に訴えて、牛尾の日光寺を北荒木村に移転するよう願い出た。幸に藩からこれを許した上に、四方が松の木にかこまれている土地を、寺を建てる敷地として許された。そこで神門郡の役人の方々、二人の下郡、六人の組頭といった方々は、郡全体の住民に命令して、米204斗を布施として集め、寺を建てる費用とした。更に岡氏並びにその聟の濱崎義喜殿は、共に浄財を喜捨して寺院を建立し、間もなく完成した。
 そこで享保12(1727)年3月5日、本尊釈迦牟尼仏を奉安し、歎仏供養をして、僧侶も信者も深く感激し仏道帰依の心を起した。
 そこで寺が建てられたいわれを書いて棟札とし、又藩や郡の役員の姓名を記し、後世の証拠とする。
 そこで一篇の詩偈を作って、これから末長く栄える幸を祝うことにする。その偈は
一群浄施建梵刹(神門全郡の尊い財施によってりっぱなお寺が建てられた。)
華蔵山裡日光輝(この華蔵山には日光寺が建立されて、その名の如く暖かい春の日が輝いている。)
砂頭怱変華蔵界(今まで砂山であったのが、この寺が建って急に蓮華蔵世界のように厳浄された美しい仏の世界になった。)
億萬斯年永啓扉(この村の多くの人々は今年から永久に仏の世界の扉を開いて仏の御恵に浴することができるのである。)

日光寺開山略行状記
華蔵山日光禅寺開山禅山元嶂大和尚禅師
 承應二年誕生
 大本山總持寺直末輪番地神光寺十八世風月周乕和尚に就て得度。十歳頃より二十歳頃迄全寺に師事弁道。
 二十余歳にして立職し弘安寺十世寂空海禅和尚(真福寺開山)の室に入り大法相続。爾来数年間洞光寺先住義林太信和尚に随侍弁道修学。
 二十五、六歳頃より四十余歳に至る迄諸国行脚。加州大乗寺を始め各地の知識に参得。後ち江戸に出て吉祥寺大圓寺等に励精。此時歎仏法式の区々不精なるを歎じ自ら費を投じて所伝の式法壽梓し宗内を一定せらる。即ち現今の式法是れなり。
 五十九歳の時、正徳元年、神光寺二十一世中興誾翁秀悦和尚、偶々大本山輪番住職を奉仕せらるるに方り、侍者として随行し勤務一年才機を振ふ。
 其後弘安寺十一世を董す。爾来折々神光寺に来住して二十一世を補佐す。維れ宝永正徳享保の頃なり。
 其頃より日光寺開闢を発願し、誾翁老師に熟議して援助を求め先づ神光寺檀家にして最も有力篤信なる濱崎又三郎を開基として檀家に貰ひ受け、欣喜雀躍更に全地居住の当郡新田奉行岡又右衛門尉をも開基に引き入れ、互に発願の心を励まし共に親しく協力して、弘安寺末なる日光寺を移転建立の出願を為し、享保九年許可あり。愈々伽藍建設に着手し、全歴十二年三月五日(距今二百十年前)落成入仏供養を営む。時歳七十五
 先之、光明寺延暦寺を開創して其の開山に請せらる。
 法嗣法弟十数名あり。就中、玉泉寺二世徳峯大信和尚(宝永七年四月十四日寂)法泉寺前住天陰道林和尚(宝永七年四月二十四日寂)見性寺三世大通高豊和尚(享保六年五月十六日寂)永泉寺五世泰淳大安和尚(享保十八年五月三日寂)等は其の最たるもの。宜なる哉此の如く児孫繁栄寺門興隆を見るは、開祖の学徳高き善知識なりしに依る。元文二年十二月十八日吉田村長寿寺助化中遷化。波多村光明寺に於いて本葬。全寺に掩土立塔。行年八十四。
遺偈
開花落葉 去来断縁
八十四歳 風寒月圓
  咦
以上神光寺旧記参照誌之置者也。
維時昭和十一年十月吉日
不老山神光禅寺三十六世天奄清巌 納

 尚、ご開山 禅山元嶂大和尚は、当時、まれにみる学識高い高僧であり、「歎仏法要」法式をまとめられ、現在に行われていると記されている。
その他 先住の足跡をまとめた「華厳」華厳山日光寺先住忌・施食会によせて より

 冷夏にして雨がつづき、はや秋の気配を感じさせるこの頃ですが、御健勝にてお過ごしの事と拝察申し上げます。
 八月はお盆の月であり、施食会の月であります。施食会は当山にとって、年一度の総檀中のおまつりであり、檀信各家先祖代々の先亡精霊をはじめ、三界の万霊を供養する法会でありますが、この功徳によって、生存者は長命で、福楽な生活を送ることができ、先亡者は苦界を離れて、安養の浄土に生まれることができるのであります。
 当山開創以来二百七十年の間、毎歳この法要が行われてきました。この長い年月祖先の方々が施食会を勤め、家門の繁栄と子孫の長久を祈願された結果、今日の安養な日々が恵まれたことを思い、その恩に報い、更によき未来を開くために、真心をもって、みんなでこの施食会に奉仕したいものであります。
 さて今年は、
 当山六世 玉海良暾大和尚 百五十回忌
 当山十世 葩山捷應大和尚 十七回忌
の年であります。
 ここに、二人の大和尚の略歴を記し、御遺徳を偲びたいと思います。

当山六世玉海良暾大和尚
 当山の過去帳によりますと
 文政六(1823)年当山五世虎巌良轂大和尚の後を継いで住職となり、嘉永六(1853)年に遷化されるまで三十年の長きに亘り、住職として大衆を済度されたことになります。1823年は、シーボルトが長崎に来航した年であり、1853年は、ペリー来航の年であります。この三十年間は、天保の大飢餓をはじめとして、大塩平八郎の乱など世情は混沌とし、水野忠邦による天保の改革も功を奏さなかった時代でした。簸川郡誌にも「享保以後、生活程度低き農家が更に飢餓を忍耐せし事はいまに残る実話なりとす。」と書かれています。

当山十世葩山捷應大和尚
 昭和十六年十一月八日に当山住職となり、昭和六十二年七月二十七日まで四十六年間の長きに亘り、住職を勤められました。先住は、幼少より作文を好み、旧制杵築中学校時代には校友会誌「七生」に毎号のように、作文や創作が掲載され、特に五年生の時には、創作「ある日の大梶七兵衛」を発表し、新聞にも取り上げられ好評を博しました。旧制中学を卒業するや、日御碕小学校の代用教員を皮切りに、大社青年学校・大社高等家政女学校・大社高等女学校・大社高校・出雲高校・出雲女子高校の教諭を歴任されました。その間、住職としては、日光寺機関紙「けごん」を六号まで、「けごん通信」を九十七号まで発刊され檀信徒の教化に努められた。また、大変な勉強家で、島根新聞(現・山陰中央新聞)の大社高校の紹介記事には、「生き字引的な村上教諭」として紹介されています。
 ここに、手元に有ります先住の校歌等の作詞や創作を書き表して、葩山捷應大和尚の略歴に替えさせて頂きます。

大梶音頭 作詞 村上捷應
出雲大社の大梶踊
島根大社の荒木の里の、中を流れる高瀬川
 川の土手草冬枯れしても、川の恵みは忘りゃせぬ
忘れてならない神門は古志の、豪家生まれの大梶翁
 翁の功は数々あれど、園の長浜荒木の浜よ
浜に松の木移されりゃ、根はり枝はり風またはずむ
 見事美田に水また充ちて、見た目ゆかしき郷となる
成るは一日、二日のことか、骨身を削る苦心あり
 蟻の歩みの実は結ばれて、八通お山の松の色
励む村人あな頼もしいや、弥山に霞がたなびけば
 桑の芽も伸ぶ麦も伸ぶ、伸びた麦田の手入れにくる
あの娘化粧する暇もない、泣く子すかして桑の葉つんで
 蚕蚕でまゆの玉、娘おたいこ赤たすき
早苗取る手もいそいそと、所変われば風儀も変わる
 畑の水汲み急がしや、桃やトマトや茄子葉っぱ
子供老人総出で刈って、秋の収穫ようやくすんだ
 かわいい背君米俵、手に手にぎりて増産一路
ニッコリ笑って西振り向けば、神代ながらの三瓶のお山
 やがて三瓶に雪が降る、米を背にし大梶神社に
御初穂あげて拝みましょ、益々繁盛する村内家内
 これも大梶翁のお陰なり、出雲大社の大梶踊

荒木小学校 校歌
  作詞 村上捷應
  作曲 下総皖一
若草もゆる 荒木浜
むかしを遠く しのばせて
はるかにかすむ 高瀬川
ひらきし人を したいつつ
深きめぐみに こたえんと
誓うわれら 誠あり

みのりゆたかに 空はれて
北に弥山の みね清く
南に青し 三瓶山
平和の光 さすところ
高き文化を きずかんと
はげむわれらに 力あり

あしたにひびく 潮の音
ゆうべにわたる 松の風
うましき里に のびてゆく
若く幸ある 命もて
学びの道を 一すじに
進むわれらに 希望あり

大社ライオンズクラブの歌
  作詞 村上捷應
  作曲 竹下正之
弥山の峯の 空高く
こだまをかえすウィ・サーブ
奉仕の熱き 誠もて
世界をつなぐ 春の輪を
結べ 大社ライオンズ

稲佐の浜の 沖遠く
ひびきこたえる 波のローア
自由と平和 友愛の
うるわしき道ひとすじに
拳れ 大社ライオンズ

大社高等家政女学校
大社高等女学校  校歌
  作詞 村上捷應
  作曲 岡野貞一
宇迦の山もと高しらす
朝風きよき神垣に
教へはたかし老松の
操のいろの深みどり

稲佐の濱の夕映えに
うまし国原かがやきて
さとしはあかし 産業の
恵みゆたけき地の稔り

八百丹杵築の宮はしら
仰ぎたてる学び舎に
誓ひはかたしまごころを
捧げまつらむ日の御門

八百丹杵築の宮はしら
仰ぎたてる学び舎に
誓ひはかたしまごころを
捧げまつらむ日の御門

【墓地募集は檀家のみ】
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