神宮寺(じんぐうじ)

神宮寺(じんぐうじ)

教区 第六教区
住職名 吉田明弘
本尊 釋迦牟尼仏
住所 〒699−0763 出雲市大社町日御碕653
電話番号 0853−54−5366
年中行事 旧暦初午の日  済世利生王天祭り(稲荷まつり)
旧暦6月8日  神宮薬師例大祭
5月  花まつり子供大会
8月15日 午後3時~  お盆法要・山門施食会
8月16日 日没時  日御碕地区灘施食会
沿革と縁起 【開基】
 天暦2(948)年62代村上天皇の勅願により、日御碕神社の境内に伽藍を創建、神宮寺と号し、別当職を司った。当時は真言宗だったと伝えられる。

【由緒】
 当時の創建には二通りの説がある。
 「神宮寺略史」によれば、「天暦2(948)年の頃、村上天皇、日御碕神社の境内に伽藍をし給う。日御碕神社の神宮寺にして、現今の大社を管領したりしも、神仏分離の結果、今の日御碕神社社内に在りし寺院を僻地に移す」とある。
 「日御碕社記」によれば、「天暦2(948)年、小野家60代高光が勅命により上の宮、下の宮を造立した時、薬師堂、経堂、護摩堂、三重塔、多宝塔、大師堂、鐘楼なども同時に造立された」と記されている。
 当寺は、寛永21(1644)年頃に、将軍秀忠の祈願により、神社遷宮にあたって、堂塔等神宮寺本地堂が華々しく改築されたのでは、と推察される。
 当寺が曹洞宗に改宗したのは、長禄年間(1457~1460)で、洞松寺3世・茂林志繁大和尚(岡山県小田郡矢掛町横谷)が晋住し、中興開山をなし、爾来、洞松寺の末寺。
 長い歴史の中で、2回の大火に見舞われている。享保4(1719)年、寛政10(1798)年に2度も伽藍が焼失した。後に6間に4間半の本堂が造営された。
 これも束の間、この頃から廃仏毀釈の声が高まり、天保7(1836)年、神社の境内を避けて、約300m東に離れた薦沢谷の現在地に移った。
 先ず、本尊・釈迦牟尼仏を奉る小堂を再建した。しかし寛永2(1849)年、またまた大風のため、お堂はことごとく破壊された。翌3年、小堂を建立したが、4間2間の、しかも本堂と庫裡を兼ねたような草庵で、みすぼらしいものだった。
 当寺境内に現存する薬師堂に奉られている薬師如来像は、伝教大師の作と伝えられ、1木3体の中の1体。1体は一畑薬師、他の1体は鵜峠小猪目で、一畑薬師の姉仏であるとされ、これが日御碕神社の本地仏であったため、国守の命によって、明治8(1875)年まで、神社から茶湯料として米8石、大豆4斗、小豆4斗、その他人夫100人、薪炭は勝手なる待遇を受けていた。
 明治6(1873)年には、旧藩から「神仏混淆あいならず」の達しが出されたので、17世雲山祖竜和尚は協議の上で、寺録を廃し、寺号も「順具寺」と改称した。
 現在の本堂は、明治40(1904)年、20世仁良卜鳳和尚の代に再建されたもので、5間5間半、総建坪は27坪半。
 前住職25世梅萼重信和尚の代に、檀信徒の総意をもって、寺名の復名を申請、昭和34(19591959)年11月4日付けで許可された。
 昔から由緒ある寺院にふさわしく、山号を天一山、寺名を元の神宮寺と呼ぶに至った。
その他  中国四十九薬師霊場第三十六札所です。
 遠い昔、初めて仏教が伝えられた時の仏様は、薬師如来であるといわれています。その時代は人々が病気になると、薬師如来の功徳にすがるのが病根を除く一番の近道と考えられました。今は、心の平静を求める時代です。薬師如来をまつるお寺が手を携えて、あなたの心を安らぎへと導きます。癒しの場所であること、それが中国四十九薬師霊場の願いです。
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