観音寺(かんのんじ)

観音寺(かんのんじ)

教区 第一教区
住職名 藤原玄聖
本尊 十一面観世音菩薩
住所 〒692−0731 安来市広瀬町西比田1758
電話番号 0854−34−0033
FAX番号 0854−34−0424
メールアドレス kan33@dojyokko.ne.jp
各種講座
  • 梅花流詠讃歌毎月2回
年中行事 8月末 土曜日  施食会法要
沿革と縁起  山号は微妙山。
 仁多郡横田町竹崎に、島根、鳥取の両県に跨がる標高1142メートルの船通山がある。その山のふもと竹崎に数カ所、寺の名前が地名として今も残っている。玉雲庵、虚空庵、永祥庵そして観音寺などである。往古はそれぞれの堂宇が建っていたと思われるが、既に江戸中期にして「永正(祥か)庵、何時か頽破して今は庵地ばかり残りはべり、観音寺、右に同じ」と『雲陽誌』は伝えている。
 当微妙山観音寺誕生の地は、この船通山のふもとの山根側と伝えられる。さらに寺伝によれば「慶雲3(706)年、行基菩薩が出雲巡錫の砌り(霊山に入りて霊木を切り仏像を刻む)と古書にある如く、横田鳥上山にて観音像を彫刻され、「上峯山運び歩みて観音寺、頼む心は後の世のため」と歌われ社会教化の道場として末寺7ヶ寺を擁し繁栄し、戦乱の世には僧兵を構え、自ら法燈を守護したと言う」と。さらに時は流れ800年過ぎた「永正年間(1504年余)横田藤ヶ瀬城主・三沢信濃守為国公は尼子氏と戦端を開き奮戦したが、危機に臨み観音寺の僧兵が出動したが遂に落城、尼子の兵は観音寺に迫り、止むなく重い物は土中に埋めて比田に逃れ比陀羅山麓に庵を結び僅かに炊煙を立てて難を免れた。後戦が静まり諸堂完備し比羅微妙山観音寺と号し、後微妙山観音寺と称し現在に至る」とある。「昭和十二年、地元道路改修工事のため鳥上村大字竹崎山根側字観音寺の地点を掘り下げたところ損なわずして左記の遺物を発掘せり」と地元竹崎の荒木宗重という人物が書き残している。それによると茶臼、挽臼、鉄製香炉、壷などと一緒に鰐口1個が発掘された。この事実をふまえて、当寺は「観音寺と稱する番地の遺跡から数々の遺物が発掘され、口伝が実証された。内でも鰐口は山陀のおろち(製鉄族)の製鉄法によるもので、考古学上の重要文化財である」とも。その鰐口は寺宝として当寺に秘蔵されている。
 行基菩薩は奈良時代の僧、父母ともに中国系の氏族、行基は一時期、民百姓への布教を禁圧されたが、天平15年大仏造営の勧進に起用された。行基の土木技術の力量、多くの知識(弟子)を集める能力に助けを求められたわけだが、最後は大僧正に任ぜられ天平正宝元(749)年に入滅した。40余ヶ寺を造営したと伝えられる。
 当寺本堂に祀る本尊・十一面観世音菩薩は京都の仏師源七の遺作、観音堂には千手観音と出雲三十三霊場の仏像を勧請し毎年8月17日「十七夜祭」や札打や盆踊りで賑わう。山門横の社は63の神を祀り、六三外しに著しい御かげがあるとして信者が多い。六地蔵は別名「イボとり地蔵」と呼ばれる程の妙力がある。
 さて当寺が比陀羅山麓から当地に移り、曹洞宗に改宗されたのはいつの頃であっただろうか。当寺過去帳によれば曹洞宗のご開山は、亀嵩・總光寺7世融山大祝大和尚である。ついで2世中興朴翁如淳大和尚、正徳3(1713)年7月8日示寂。3世珉山蓬州大和尚、享保19(1734)年8月27日示寂と続く。現在の本堂は安永4(1775)年、8世補道亮天大和尚代、庫裡は宝暦13(1763)年7世祖道宣参大和尚代、位牌堂は昭和61(1986)年、山門、境内石垣は藤原玄聖代、それぞれの建立、造営である。
 門前に大石の寺標が立ち、山門建立、石垣造営、参道の整備により、正面山容の面目は一新した。
その他 寺宝  鰐口
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