不要なものを断ち、捨て、執着から離れる「断捨離」が持てはやされて久しい。平安末期から鎌倉初期の歌人、鴨長明は晩年、京の都を離れて伏見郊外の山にわずか一丈(3メートル)四方の庵で寝起きし、持ち物もほとんどなく、いたって質素な生活であったらしい。
さて、現代では「持っている」ということの方が持てはやされるようだ。ただ単にモノを持っているだけではなくて、ここぞというときにビシッと決める人のことを「持っている」という。「持っている」ことに対する憧れや尊敬の念は大きいようだ。
しかし、私たちが暮らしていくのに必要な持ち物は、そう多くはいらない。例えば服やくつ、かばん等は必要以上に持っていることが多い。私自身も購入したのはいいが、未使用のモノがけっこうある。しかもそれらのモノには、他人の価値観が入っている。「人からカッコイイと思われたい」とか「誰々が良いと言っていたから」、店員の人から「ステキです、よくお似合いです」と言われて等の理由で購入したモノが数多くある。自分が必要としているモノではなかったから無駄な消費となってしまったのだ。
私は、現在38歳。もうすぐ40歳。僧侶の身でありながらも欲しいモノがまだまだ山のようにある。無いものねだりの欲がムクムクと頭を持ち上げて、「自分のモノ」にしたいという物欲、所有欲にいまだに悩まされている。こうして、私はたくさんのモノを「自分のモノ」としてペタペタと自分に貼っている。まだ自分にはないモノ、足りないモノを自分の外側に貼り付ければ、自分が大きく見えると思っているのかもしれない。だが、本当に必要なのは外側ではなく内側に貼れて自分を強くするモノだ。仏教が説く智慧や慈悲の実践力は張りぼての中身を強くしてくれる。そして外側に求める以前にすでに「自分のモノ」にしているものが実はある。それは、「いのち」である。何の補強もいらない「いのち」を最初から手にしている。しかし、この「いのち」でさえも「自分のモノ」ではなく授かり物という考え方もある。「自分のモノ」という意識は捨ててしまった方がいいかもしれない。
「四十にして惑わず」
40歳になると惑わずに前に進めるのだろうか?
「今、あなたが持っているモノをすべて捨てて下さい。」
40歳を目前として、誰かが私にこう諭しているような気がする。
(書記 佐野晃孝)