近年宗門、總持寺において重要な行事が毎年行われている。一昨年は、能登の総持寺火災の後、横浜移転に際し監院、貫首として尽力され大英断を下された、石川素童禅師の百回忌。昨年は、峨山韶碩禅師の二番弟子であり、総持寺三世住持となられ、後に山内に普蔵院を開かれた太源宗真(敬称略)の650回忌、そして今年は能登総持寺開創七百年の慶讃法要が縮小されながらも巌修された。
宗務所として奉讃すべく団参を企画したものの、コロナ禍の中参加人数も少なく、延期せざるをえなかったことは、今なお残念でならないが晴れて参拝出来るのを楽しみに待っているところである。
昨年から今年にかけて、両大本山の動きが慌ただしい。昨年七月には前総持寺貫首の板橋興宗禅師がご遷化された。また、九月には永平寺貫首福山諦法禅師が44年ぶりとなる生前退董され、御征忌最終日に退董式並びに新貫首南澤道人禅師の入寺式が執り行われた。
44年前といえば、私が再安居した昭和51年でありあらためて当時を振り返ってみた。当時の貫首は75世山田霊林禅師であったが、四大不調の理由で授戒会の完戒上堂に併せ退董上堂をされた。
まだ新到であり配役は両班寮行者であったが、法要中は随喜寺院も全て法堂に出かけておられ用もなかったので、片隅からではあったが法要を見ることが出来た。
禅師は療養先の福井市内の安川病院から東京別院隠僚にて静養されていたが、昭和54年91才で遷化された。
51年10月に76世となられた秦 慧玉禅師の晋山・開堂が巌修されたが、臨時配役が妙高台行者であったため、この時も法堂内遠目ではあったが、有り難く随喜させて頂いた。
何かにつけ厳しい禅師であり、授戒会の壇上礼・仏祖礼のおり甲乙引鏧を鳴らしていた時、法要中でありながらでも速い、遅いと怒鳴られたが、これも導師進退をよく見ろとの教えであったかと深く反省をしたものであった。
今年には、総持寺貫首江川辰三禅師が体調不良を理由に生前退董を表明され、10月18日に退董式並び石附周行新貫首の入寺式迎えようとする矢先、福山禅師、江川禅師が相次いで遷化される不測の事態となった。特に總持寺に於かれては、この先副貫首選任となるが、選挙制度があるとはいえ、これまでに選挙により副貫首が選ばれたこともある。いずれは 大本山貫首として僧俗皆が仰ぎ拝む存在とお方を、選挙という俗な方法ではなく選任して戴きたいものである。
所長 岩田泰成