「女性住職育成の可能性」から〝ほの見えた〟こと (板倉人権擁護推進主事)

今年度の宗務所主催の人権学習のテーマを「女性住職育成の可能性」として、6月の寺族研修会、9月の僧侶向けの現職研修会の講師を森香有師(前・曹洞宗国際センター書記)にお願いしました。ただし法務や育児などのご都合を踏まえて、いずれもzoomによるご出講となりました。

森師のお人なりや問題意識、講義内容のあらすじについては、以下に簡潔にまとめられていますので、よろしければご参照ください。

(クリック→『北アメリカ国際布教100周年連載企画~北アメリカ曹洞禅のこれまでの100年とこれからの100年~ 第9回「禅とジェンダー平等」』

 

さて、今回このようなテーマで人権学習を企画した意図について説明すると、まず個人的に長年引っかかっていた「お寺の世襲」についての問題意識がありました。

その核心は「世襲そのものの是非」ではなく、「後継者としての男性」が想定されていることです。

お寺に生まれたのが男児であれば「将来も安泰ですね」となり、女児であればそれよりも消極的に受け止める雰囲気があるとしたら、「生まれによる差別」が寺院承継する上でそもそもの基盤となっていないか。それがある限り、お寺の「人権感覚」はずっと周回遅れのまま。

これは私が大学時代、ある先生から受講中に投げかけられた言葉でした。それまで「妹にお寺を継がせることはできない。長男である自分の責務」と当たり前に思っていましたが、「女児もお寺を継げるようにならなければ」という先生の問いかけに、「ハッ」と耳目を開かれた感がありました。

 

もう一つは、お寺の「後継者不足」がますます深刻になっていること。ならば男性だけではなく女性の住職が増えるように施策すれば、単純に数的な問題は緩和するのではないか、という個人的な着想でした。

 

詳細は省きますが、、女性住職を増やす手立てとして、まずは有髪に寛容になること。もう一つは女性僧侶が本山で修行できるようになること。この二つが大きなテーマでありハードルでしょう。

 

ただし今回の受講だけで、お寺が「女性住職を育成する」ために一斉に舵を切ることはない、岩盤のような現状があるのも実感しています。

それでもいつか花実がなるために、少しずつ土を耕し、水をやり続けるべきですが、私が担当主事の間はそういうカリキュラムが組めたとしても、担当が変わって別の課題が更新されれば、先送りされて問題意識が続いていかないかもしれない。

演題に「〜の可能性」と蛇足したのは、そういう現状と憂慮を含ませる意図がありました。

 

さて今回、森師にご出講いただき、実際の受講者の実際の反応も見た上で、この問題を改善する際の障壁になるであろうものも、ほの見えてきた。

 

一つは「合理的配慮」の諾否です。

「合理的配慮」には「努力義務」としての側面もあります。例えば、本山で女性が修行できるようになるには、お手洗いや風呂といった住環境を整え直し、場合によってはそれまでの生活習慣も変える可能性もありますが、それを「無理」「不可能」と端から決めつけてしまうきらいがあります。

そんな時の常套句が「本山でなくても尼僧堂がある」なのですが、それは「道元禅師、瑩山禅師をお祀りする本山で修行をする選択肢が、女性にはない」ことだと、よく銘記しなければなりません。

 

もう一つは「差別はない」という現状肯定です。

これは森師も実際体験されたことですが、ある問題点を指摘すると「現状において差別はないのに、それを然もあるかのようにして、事を荒立てている」「直ちに訂正して撤回せよ」と、逆に主張する場合があります。

はっきり言って、これは人権問題の「あるある」。

一種の防衛本能による反射だと思いますが、そもそも当人が無自覚だから問題が露見するのであって、指摘に対して一旦身の回りを点検して己を顧みるのが、正当な対応。宗門にとっての「同和問題」の端緒なった事例と同根であることは、言を俟たないと思います。

 

人権について学ぶことは、自分が気づかない問題に目をむけるトレーニングだと、個人的に捉えています。

伝統や和合は大切なことです。

しかしそれが単なる「多数派」や「権威」の構成に資して「少数派」を遠ざける論理に利用されていないか、よくよく「脚下照顧」しなければなりません。

 

最後にもう一点。

男女の性差に終始していて、現代的な「LGBT(Q)」の観点が欠如している。そんなふうに思われる御仁もおられるでしょう。ご高見至極その通りです。ここでは、生活実感としての「男女の性差」から取り組みつつ、「LGBT(Q)」も同じ地平にあると、申し開きさせていただきます。(人権擁護推進主事 板倉)

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