本年度の檀信徒本山研修会は、大本山總持寺で1泊した後、梅雨空の下、相模路を西へ。小田原、箱根、江ノ島、鎌倉の名所旧跡を巡りました。
緊張感のある本山での研修を終え、楽しく開放的になるはずの旅程ですが、私はやや気持ちを固く保ち続けていました。それは、この旅程を舞台にした、ある二人の僧侶に対する「擯斥(ひんせき)顛末」が頭をもたげていたからです。「擯斥」とは排斥のことで、すなわち曹洞宗教団から破門、除名されることです。
まずは、旅程にも組み込まれて参拝した箱根・林泉寺の元・住職、内山愚童師(1874−1911)。
箱根・林泉寺
林泉寺を拠点に、僧侶且つ社会主義者として活動し、明治42(1909)年に発覚した、いわゆる「幸徳事件」(大逆事件)に連座して処刑された12名のうちの一人です。これを受けて、当時の曹洞宗は愚童師を擯斥処分としました。
しかしこの「幸徳事件」は、後年になって国策捜査とも言える冤罪事件との評価がほぼ定まっており、また作家の水上勉氏や瀬戸内寂聴師などは、愚童師を仏教者として高く評価しました。曹洞宗も平成5(1993)年、事件発生から約85年を経って擯斥処分を取り消し、名誉回復が果たされました。平成17(2005)年には宗務総長が出席の下、愚童師の追悼法要と顕彰碑の除幕が行われましたが、この時に、
「当時、世界の強国は軍事力をもって領土拡大に奔走していた時代であり、日本も例外ではありませんでした。国家は民衆の声や運動を封じ込めるために「大逆罪」を実体化し、(中略)軍国主義の破局へと突き進んでいきました。
宗門も時の国家体制に追随し、信仰の自由と平和を希求する良心をも放棄し、仏教者の誓願に背き、教学を歪曲してまで、積極的に戦時体制に協力しました」
と表明して、教団としての罪過を認め、これを懺謝し、再発の防止を誓願しています。
私個人としては、愚童師個人の評価については是々非々があっても良いと考えていますが、少なくとも当時の教団が為したことは問題であり間違っていたと思います。折しもいわゆる「共謀罪」法案が成立した今、公権力が個人に対して、疑わしきを罰した愚童師の一件を、現代に生きる曹洞宗の僧侶として、改めてよく銘記しなければならない。そう強く念じ、林泉寺の本堂で、愚童師の肖像に献香しました。
もう一つの「擯斥顛末」の舞台は鎌倉、時代は道元禅師在世時まで遡ります。
当時、越前永平寺を拠点に修行生活を送っておられた道元禅師が、1247(宝治元)年に約半年間だけ鎌倉に滞在し、在俗の弟子に教えを説いたと伝えられています。
この事跡を「鎌倉行化」と呼び、その顕彰碑が鶴岡八幡宮西横の一隅に建てられています。歌舞伎『道元の月』(2003)や映画『禅』(2009)では、道元禅師と時の執権・北条時頼の対峙と交感がクライマックスとして描かれていますが、これは正に鎌倉行化が由来です。
鎌倉の道元禅師顕彰碑
この時、永平寺から道元禅師にお供した修行僧がいました。玄明と言いますが、彼は後に道元禅師から擯斥処分されます。
時頼は、道元禅師に土地の寄進を申し出ますが、師である如淨禅師から「都市に住むな。国王大臣に近づくな」と教えられていたので、これを拒んで永平寺に帰山します。しかし玄明はこの寄進状を独断で受け取り、喜んで触れ回わりました。禅師はこれを見咎め、永平寺から追放しただけではなく、玄明が座っていた坐禅堂の床を切り取り、下の土まで掘って破棄します。その後玄明は約130年生き続け、後に箱根山で見つかった、とも言われています。
この擯斥については賛否があります。「権勢に近づかない」という高潔な道元禅師のお人柄を示す、という意見の一方で、温情がなく、いささか処罰が過剰ではないか、という意見もあるのです。
実は、この玄明の一件は後年の創作(玄明という名の修行僧がいたのは確かのようです)と言われており、その原典となったのは、道元禅師が亡くなられてから約200年後に永平寺によって編纂された『建撕記』という禅師の伝記だと言われています。
ここからは私の個人的な所感、ただの三文推理でしかないのですが、当時總持寺教団は開明的な教化手法で門流を飛躍的に伸ばしていた時期であり、逆に自内証的で財施にも乏しい永平寺教団が、「總持寺的」な象徴を投影したのが、玄明という僧侶像だったとは言えないでしょうか。両者の差異を示すため、道元禅師は殊更に高潔に、反対に玄明は厳しく徹底的に処罰される必要があった。
明治35(1902)年の道元禅師650回忌の時に、僧侶十名が発願して、時の貫首・森田悟由禅師に玄明の恩赦を陳情します。悟由禅師は玄明に代わりに道元禅師に懺謝のお拝をされ、650年ぶりに恩赦されました。玄明の位牌は道元禅師の御真廟に今も祀られています。
ちなみに、歌舞伎『道元の月』で玄明を演じた中村勘太郎さんが、6年後には『映画 禅』で道元禅師を演じました。こんなところにも、の時空を超えた師嗣の和解が、偶然にも裏付けられているとも感じます。
奇しくも相模で交わった2人の擯斥僧の顛末。いずれも教団の方が赦免した、というのが印象的です。でも「死人に口なし」。赦免された方の心中が如何許りか、今や知る由もありません。
時に集団心理は個人の裁量を圧迫し、「乳水和合」や「大衆一如」という美名の下で、特定の意思を反映させるため、少数や異論を排し、忖度したり空気を読まないと世を渡っていけない状況を作りがちです。私も宗務所に勤めていると、時々、「曹洞宗」という教団の組織や看板を守るために働いているのではないか、という疑心に駆られることがあります。
しかし本来の僧伽(サンガ 僧団)とは、志のある個が集うことであり、組織協働は手段や方便のはず。
・・・てなことを、人知れずマインドトークしていたら、バスの車窓から江ノ島が見え、突如サザンが大音量で脳内フェードインしてきた、紫陽花から水煙たなびく梅雨の相模路でした。(教化主事 板倉)