「黙っていれば、まあそれなりに…」と言われることは、はたして褒められていると捉えて良いのだろうか?
あと二ヶ月で四〇歳となる私だが、独身キャリア四〇周年となることに関しては、誰も祝ってくれようとしないのが現状だ。独身キャリアが長引くにつれて、「そろそろ」「もうそろそろ」「まだ?」と言われるようになって久しい。頑固一徹、まじめ一辺倒で堅物の印象が強い私だが、結婚に関してはおう揚に構えている。機会があればと常に考えているが、その機会が一向に訪れないというのが実情だ…。
さて、冒頭の「黙っていれば」というのは、どういうことなのだろうか?「黙っていれば」という表現には、「普段からよくしゃべる」「常ににぎやかだ」という含みもあるものと思われる。だから余計に気になるのだ。「黙っていれば」が、どのような感情から放たれる言葉なのか。おそらく、もう少し寡黙な雰囲気であれば何とかなりそうだが、今のあなたの姿はどうも違う…残念だ、という意味だと推測する。また、「まあそれなりに…」という言葉とも合わせて、若干の上から目線感が気になるところだ。しかし、「…」という部分に含みを持たせているので、全面的にけなしている訳ではないという気遣いもやや感じられる。言われた側は、「そうか、黙っていればまあそれなりということは、今の状況でもそこまで酷くはないのだな」とそれほど嫌な気持ちにはならない。
「沈黙は金、雄弁は銀」「雉(きじ)も鳴かずば撃たれまい」饒舌よりも寡黙が良きこととして考えられてきた。この流れからすると「黙っていれば~」と言われることに対しては、それこそ黙って受け入れるしかない。
さて、前段が長くなったがここからが本題だ。今年の11月18日(月)中国曹洞宗青年会いずも大会(中曹青いずも大会)が開催される。今大会のテーマは、「食(しょく)」だ。食べ物は、沈黙の世界である。食べ物が自らを語ることはない。しかし、黙っていても見た目の鮮やかさや芳しい様に心惹かれる食べ物はたくさんある。
「食」は、人間がエネルギー・栄養素を摂取して健康な体を維持するために必要だが、それだけではない。毎日の食事で、「何を」「どのように」食べるかは、人間の精神的な幸福と深くつながっている。また、昨今の経済格差は、食の格差を招き、健康の格差や幸福の格差をもたらしている。今改めて、「食」への関心を高め、知識不足を補う食育が必要とされている。
仏教にとって「食」は、大切な修行の徳目だ。仏教でいう「気づき」とは、未知のものを知ることではなく、身近な存在の大切さに気づくことである。食べることには、その気づきが最も劇的に現れる。先述のとおり、食べることは修行である。例えば、食器を持つ、箸の使い方等の食事の作法を知れば、これは修行であるということに気づく。「食」を学ぶことは、食事という日常の作業が日常の修行であることに気づかせてくれる。
今秋開催の中曹青いずも大会。テーマは「食」。半年以上前の現段階でも黙ってはいられないくらいすばらしい大会になるのではないかと思う。人と人をつなげる力のある「食」を通じて魅力ある‘おいしい’大会になればと切に願う。
(書記 佐野晃孝)