『沙羅双樹の下で!お釈迦様の涅槃の地)』~Buddhist Circuit Trainの旅~(堀江副所長)

前回からの続き!

 釈尊は私たちが安寧に生きていく為の教えを悟られて現インド北部を中心に人々に教えを説かれて来ました。しかし、釈尊も齢には勝てず自分の生まれ故郷に向けて旅をしている頃、現インド北部のウッタル・プラデーシュ州(Uttar Pradesh)のクシナガラ(Kushinagar)のヒランニャバッティ河のほとりに差し掛かった時にいよいよ体力の限界を悟られたのか一緒に旅をしていた弟子に「私はもう疲れた!沙羅双樹(さらそうじゅ)の樹の下に横たわる場所を用意してくれ!」と沙羅双樹の木陰に横たわったのでした。
 横たわった釈尊の周りには弟子たちや村人が集まり悲しんでいると、釈尊は残された力を振り絞って「悲しむなかれ。嘆くなかれ。私は説いていたではないか。最愛で、いとしいすべてのものたちは、別れ離ればなれになり、別々になる存在ではないかと。」生きとし行けるもの時を止める事は出来ず、常に別れと出会いがあり常(つね)が続く事は無いと「無常」を説かれたのでした。釈尊の死は釈尊の教えの概念である繰り返す再生の輪廻から解放された状態のことから涅槃(ねはん)と呼ばれるようになりました。釈尊約80歳の頃ではないかとされています。
 釈尊の涅槃の光景は、沙羅双樹の木陰に横たわり、頭は北向き、顔は西向きとなりこれが後に一般の俗人が亡くなった時に「北枕」とされる由縁となった。その光景はこの涅槃図に書かれ涅槃の日とされる陰暦2月15日に涅槃図を掲げて威徳を偲んでいます。


涅槃図

 インドに入国したのが1月25日の深夜であったが、実はその日にインド国内初の新型コロナウイルス感染者が確認された日で、まさかインドでの死者が約40万人になろうとは予想だにしていませんでした。
 仏跡参拝の旅も5日目に入ると時差惚けや食べ物にも慣れて来ました。ホテルでの朝食後出発までは時間がありそうで、せっかくネパールまで来たのだから何かお土産物と思いホテルのフロントでインドルピーからネパールルピーに換金をして土産物店に向かいました。ところが、お土産物店の女性が両手の指を折りながら何やら釣り銭の計算をしているようで、受け取った釣り銭が何とネパールルピーとインドルピーがこちゃ混ぜ帰ってきました。ネパールルピーとインドルピーでは換金率が違いますので心配になり電卓を使って計算したところ、日本円に換算するとぴったり合っていました。店の女性は違う換金率を暗算で計算していようで、さすが0(ゼロ)を発見したインド人です。数字の計算には特殊な暗算方法があるようです。後でガイドに尋ねると、国境付近はネパールルピーとインドルピーが混在しておりホテルで換金しなくても大丈夫だと言われました。2桁×2桁くらいは暗算は誰でも簡単に出来るそうです。


上ネパールルピー・下インドルピー 500ルピー札

 今日は釈尊誕生の地ネパール領ルンビニ近くホテルに宿泊してこれから釈尊涅槃の地インド領クシナガラに向かいます。今回のツアーはほとんどが貸し切り列車の旅になりますが、今日は日程の中でバスで移動する最長距離になりルンビニから昨日通過した国境のナウタンワ(Nautanwa)のイミグレを通過してインド領のクシナガラまで約200Kmをイミグレ通過の時間も入れて約5時間のバス移動になります。


ルンビニからクシナガラまで約200Km

 相変わらずインドの道はインフラが進んでおらず、舗装も簡易舗装のようで結構揺れる車内でしたが、もう5日間も同じバスに揺られていると言葉の壁も全く無く車内ではおつまみのような物が行き交っていました。


ハリニッパーナ寺院(涅槃堂)

 やっと、午後に釈尊涅槃の地クシナガラの涅槃堂のあるハリニッパーナ寺院(涅槃堂)に到着しました。内部には5世紀頃に作られたとする全長6mほどの涅槃像が安置されていました。涅槃堂では大きな布を涅槃像を時計回りに廻って涅槃像の上に掛けるのだとインド在住の友人より涅槃堂での参拝の仕方について聞いていたのですが、日本ではこのような参拝方法は聞いたことは有りませんでしたが、「郷に入っては郷に従え」で日本から2m×6mの大きな布を市内の布地店で用意もらい持って行く事にして「郷に従う!」事にしました。涅槃堂の中では同じツアーで中国(広東)から参加した人たちが広東語で称号をお唱えしながら布を持って参拝中でしたのでそれにならう事としました。


涅槃堂内に安置された涅槃像


中国(広東)からの参拝者

 涅槃堂内に入ってまず気になったのが今まで嗅いだ事の無い甘い香りでした。涅槃堂のある寺院中には釈尊の涅槃に因んで沙羅双樹の樹が沢山植えられていました。沙羅双樹はフタバガキ科サラノキ属の樹で元々熱帯地方の樹で日本では夏つばきの様な常緑高木のようです。沙羅双樹の木陰で涅槃に至ったことから紅葉しないはずの沙羅双樹が白く変色してしまった事になぞらえて釈尊の涅槃を樹でも悲しんでいると悔やみを表す樹のようで、堂内の匂いはこの沙羅双樹の樹液を固めた物を焚いているそうです。
 また、日本の葬儀の祭壇には形は種々有るようですが四華(しか)と呼ばれるものが飾られています。本数の決まりは無いようですが4本なので四華と呼ばれ釈尊の涅槃に因んで悔やみを表す飾り物として飾られるようです。涅槃堂の近くでこの樹脂を売っていましたのでお土産として持ち帰りましたが、この樹脂を焚くたびに釈尊涅槃と涅槃堂を思い出します。


日本の葬儀に飾られる四華(しか)


沙羅双樹の樹液を固めた香(?)

 涅槃堂から東に約1.5Kmの所に釈尊が火葬されたとする場所に高さ15m、直径34m、レンガ造りの荼毘(だび)塔(ラーマバール・ストゥーパ)がある。
 釈尊は死後火葬をされたが、涅槃後の7日目に棺は荼毘場に移され点火しようとしてもどうしても点火せず、その場に釈尊涅槃の知らせを聞きつけて当時の最長老であった摩訶迦葉(まかかしょう)マハーカッサパ(Mahakassapa)が駆けつけて、点火用の松明(たいまつ)を持ち釈尊の棺に対して三度大きく円をかき三度棺の周りを回り最礼を尽くして点火した処、釈尊の棺はマハーカッサパが駆けつけてくれるのを待っていたかのように赤々と燃え上がったと伝えられています。以後、遺骨は分骨され特に釈尊没後約100年頃に初めて旧インドをほぼ統一したマウリア王朝第3代王のアショーカ王(Asokaḥ・漢訳は阿育王)は釈尊に大変帰依をし各所に分骨と共に仏塔(ストゥーパ)を建立している。
 この火葬の仏事は現在でも葬儀の場において、授戒(じゅかい)を受け釈尊のお弟子として戒名を授与された故人に対して導師が松明を持ち釈尊と同様の敬意をはらい棺に点火する「法炬(ほうこ)」とか「秉炬(ひんこ)」の仏事として残っています。


葬儀における「法炬」・「秉炬」の仏事

 今夜は夜行列車となります。一昨日にネパール入国の為インド最北端のナウタンワ(Nautanwa)で列車を降りて以来、ほぼ2日ぶりに列車に戻りますがクシナガラは鉄道本線よりかなり離れていますので、西方へ約1時間の本線に近いゴーラクルブ(Gorakhpur)から釈尊が長年布教を続けたシャバスティーの祇園精舎へ行く予定ですが、ゴーラクルブからシャバスティーまでは約200km足らずですので、深夜に出発して時間調整のために途中で長時間停車するはずです。
 ひとつ驚いた事に列車の編成が逆向きになっていました。これだけの編成を編成変えするのにはどこか迂回運転をするか大きな三角線があるはずです。インドの鉄道地図を見ながら車内で考えて見ましょう。

 次回に続く

副所長 堀江晴俊

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