にわかに「ととのう」ブームが到来したのでしょうか。
最近人気のミステリードラマの主人公の名前、「整」と書いて「ととのう」と読みます。
自身でその物珍しい名付けについて説明する件(くだり)を枕に置くことで、登場人物の性格やドラマのテーマが暗に示されています。つまり主人公がストーリー全体、登場人物の事情や恣意を「整える」ドラマ(原作は連載中の漫画です)、ということになるでしょうか。
一方、最近はサウナブームとも言われています。
「サウナー」と称される愛好者がメディアでその魅力を大いに語る場面によく出くわしますが、その際のキーワードとなっているのが、「ととのう」。昨年の流行語大賞にもノミネートされました。
サウナ、水風呂、休憩をくり返すことで訪れる「さっぱり」「すっきり」といった快感状態を表す言葉、とのこと。筆者はサウナーではありませんが、そのネーミングの妙は何となく感じています。
時系列は異なりますが、落語やお笑いのなぞかけでネタを思いついた演者が「ととのいました」と発声する、っていうのもありました。
さて、私たち僧侶にとって「ととのう」と言えば、坐禅です。
私も坐禅指導でもよく「調身・調息・調心」を援用していますが、この「調」は「調(ととの)える」という意味です。
実はこの「調身・調息・調心」、禅学研究の基礎資料ともいうべき『禅学大辞典』にも、道元禅師や瑩山禅師が遺されたお言葉や著作にも、これらの言葉を見つけることはできません。
少し専門的な解釈になりますが、そもそも曹洞宗では只管打坐を説き、坐ること自体が「心が調う」ことなので、「姿勢を調え→呼吸を調え→心が調う」と段階を経て入定することは、原則的には宗意安心と異にする立場とも言えます。
ではこの「調身・調息・調心」を説く根拠はどこにあるのでしょうか。
おそらく最も有力なのは『天台小止観』という中国隋代に成立した坐禅の指南書にある「五事の調和」(調食・調眠・調身・調息・調心)だと思われます。
元々天台宗で説かれていたものだから、曹洞宗の教えとは違う、と言いたいわけではありません。
新しい価値や方法を示す時に、馴染みのある従来の価値や方法を方便とすることはよくあることですし、少なからず、新しい価値や方法に、従来のそれが影響を与えていることはあり得ることです。
道元禅師は直接「調える」と直接説いておられませんが、『天台小止観』などの影響も受けて『普勧坐禅儀礼』を著され、坐相の調え方や呼吸法をまとめられたと思われます。その中で次の記述を遺されています。
「夫れ参禅は静室宜しく、飲食節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管すること莫れ」。
それでは、昨今流行を兆している「ととのう」と「調う」に違いがあるのでしょうか。
まずミステリードラマについて。
主人公の名前は「整」。「調」ではありません。
両者に「合」という字を後付けすると、字義の違いが見えてきます。つまり「整合」と「調合」です。
「整合」は不揃いを一致させ矛盾を排すること。そもそも「整」は「束」と「正」で構成されています。束ね正そうとする。つまり行為者の主体性が強い「ととのう」です。
一方の「調合」は、直接的には薬剤などを混ぜ合わせることですが、要は全体を見て、2種以上のことやもののバランスをとり、調和させることです。「調」には「周」の字を含みます。つまり「周りを踏まえる」(「言」は?のツッコミはひとまず置く)。行為者にとっては受動性の強い「ととのう」になります。
ポイントは「善悪が介在しているか」でしょう。「整う」は行為者の価値や善悪が拠り所となりますが、「調う」は行為者が自身の価値や善悪をひとまず置くことから始まります。
これを踏まえると、件のミステリードラマでは制作者(または原作者)が発信したいメッセージがまずあり、それに沿った筋書きを「整える」ことで、メッセージ自体の伝播や実現をしようとしていることが分かります。
(ただし、フォローのために補足すると、「整くん」は天然パーマで整髪出来ず、それがコンプレックスになっています。他者のことは整えるけれど、彼自身が決して「ととのった」存在でないことを暗示しており、それが物語としての深みになっていると、筆者は見ています。)
次にサウナについて。
これはより違いが明確です。サウナーの「ととのう」は、一種のブレイクスルー体験であり、それを吹聴すること。例えるならば「悟った」と標榜するようなものです。
曹洞宗では「悟り」を最終到達点と見做しませんし、非日常体験も重視しません。明らかに「調う」と違うことが分かります。
「なぞかけ」については、演者の考えがまとまる、という意味では「整う」も「調う」もあり得ますが、「笑わせたい」という願望がある時点で「整う」に近い意味があります。
最後に。
この原稿を、テレビを「ながら見」しながら書いています。しかしテレビの中では、決して看過することのできない、今正に始まった戦況が喧しく伝えられています。
「調停」によって事態の収拾を早期に図り、平和に調って欲しいと願って止みません。(教化主事 板倉省吾 記)