お坊さんのいないお葬式(岩田所長)

 過日、「お坊さんのいないお葬式」を掲げ、全国の葬儀社などと提携して無宗教の「想送式」を全国展開していたNINE&PARTNERS(名古屋市)が、5月31日、窓口となるポータルサイトのサービスを終了し、今後、サイト自体も閉鎖する見込みで、宗教界に波紋を投げ掛け、昨年2月の事業開始から1年余りでの撤退に、葬儀業界に戸惑いの声が広がっているという記事を目にした。

 このサービスは、喪主や参列者へのアンケートで仏式葬儀の長さやお布施の高額さなどの指摘する声を受け、「想送証明書」に署名して黙祷する儀式や故人を偲ぶ動画の上映、献花などを提案し、提携した全国の葬儀社、貸しホールで無宗教の「想送式」を行うというもので、提携先には、葬儀社だけでなく檀家制度をやめ、葬儀などで多角的な寺院運営をする曹洞宗寺院も含まれていたようである。

 本社がある名古屋圏内では、テレビCMや新聞広告などを展開していたが、思うほど依頼が伸びなかったり、コロナ禍の影響で出資者による援助が難しくなり、「資金不足」と「周知不足」がサービス終了の理由らしい。また、都会地からの新たな発想による仏教界にとって挑戦的な葬儀形態が定着し加速でもすればと危機感を持ちつつサービス停止となったことに一安心した。

 江戸時代には僧侶による葬儀ではなく自分達だけで親族の葬儀を行う自葬があったが、時代背景からすればやむを得ず、そうせざるを得ない状況は伺い知れるが、生老病死を常に恐れ、神仏に対する畏敬の念は現代と比べはるかに深く、自葬とはいえ念仏くらいは唱えていたであろうから決して無宗教ではなかったはずである。

明治5年(1872)自葬禁止が太政官布告され、葬儀は僧侶、神職に依頼しなければならなくなった。しかし、現行法律では、信教の自由の保障が規定されており、葬儀の形態も自由であり、前述の葬儀方法、無宗教での葬儀も可能ではある。

旧来の葬儀の形は取り入れているものの、形態は大きく変化し最近では、葬儀後初七日法要を行ってから火葬するのが徐々に拡がりをみせているようである。

確かに枕経から始まり葬儀執行までの出入りのことを思えば、時間的制約は少なくて済むかも知れないが、初七日の意味さえも無くしてしまうのはどうかと思うが、そのうち私自身もその流れに乗ってしまうかもしれない。

これまで都会地に比べ地方の方が、葬儀に対する考えは従来と余り変化はないように思ってきたが、葬儀社の発展伴い隣保班による死場組の崩壊、意味もよく分からないまま簡単に身内だけで家族葬で行いたいなどの声が増えてきたことを思えば、意識変化はかなり進んできたといえる。

 かつて、信教の自由、個々の宗教を重んじる考えから、家の宗教は封建的な家制度、檀家制度に繋がるとの批判、また、商業ペースに乗った葬儀のあり方に葬式仏教などとの批判があった。さらには葬式無用論まで飛び出した。

 寺院はこれまで檀家制度に支えられてきた、その中で、家の宗教として一仏両祖の教えを敷衍し、それを家の宗教として家族個々の信仰心へと繋げる役目をが担ってきたことを思えば、家の宗教決して否定出来ないかと思う。

曹洞宗では、総合研究センターにおいて「葬祭の現代的意義」のテーマを掲げ、死の問題、葬祭儀礼の意義、授戒や引導の意味、戒名の必然性など多岐わたって研究されてきた。
 
 研究の成果はともあれ、過疎化の流れの中で檀家減少も顕著となる中、葬祭の形式も更に変化していくと思えるが、葬祭の現状を我々僧侶が如何に考えていかなければならないか 記事を読んで深く考えさせられた。                  (所長 岩田泰成)

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