段々と秋も深まりつつあり朝晩も冷え込んで参りました今日この頃です。
私が住職を務めておりますお寺では本年度の護持会事業の中で危険樹木の伐採をこの秋に行うことになっておりますが、木々というのはいつの間にか大きくなるもので、私が子供の頃よりあった木々達が巨木化もしくは古木が枯れ、台風などの大風で墓地や本堂や庫裡に向かい倒壊の恐れが出て参ったが故この度危険な個所は伐採をしようという運びになったのでございますが…
ここも切るなら私の所もと、方々からお声を頂戴するのですが、當山は残念ながら重機が上がれる参道が現状では無く、大きな木を切るのにはキコリさんに一本一本登って切って貰っている次第で、そうなると伐採の単価が高く限られた予算の中ではそう多くの木は切れないのが現状でございます。
今回その伐採事業に先立ちまして、自分たちで切れる高さや長さの枝は自分達で切ろうではないか。(後日、護持会役員さんにもお手伝い頂いて伐採予定です)ということで長い高枝鋸を購入いたしまして、天気が良い日には山内のあちらこちらに高枝鋸を担いで出向き、個人的に伐採を進めておりますが、木にかぶれてみたり、慣れない作業で生傷が絶えない今日この頃でもありますが、同時にキコリさんの伐採も始まり、今まであった所の木々が無くなっていき風景が少しづつ変わっていき周りに日差しが入り明るくなっていく山内の風景を見ていると、これからどのような風景になって行くのだろう?という期待と共に今後の護持運営を如何に発展させて行けばよいものかと、一抹の不安も感じております今日この頃です。
さて、「釣月耕雲」なる禅語があります。
月に釣り、雲に耕す。道元禅師が永平寺で詠まれた漢詩にある一文です。
「西来の祖道、われ東に伝える。月に釣り、雲に耕し古風を慕う。世俗の紅塵、飛んで到らず。深山の雪夜、草庵の中」釣りを生業とするならば月夜にまで釣りに励み、田畑を耕すならば雲を突き出た山の上まで耕す。そのくらいの気持ちで修行に励みたいという道元禅師の熱意が窺えます。世間で言えば意味の通らないことです。魚なら釣れますが月は釣れるものではありません。雲を耕すもまたおなじです。これは文字通りのことを言っているのではないわけで、魚でなく月を釣る気持ち、畑でなく雲を耕す境地。この境地を「釣月耕雲」と表現しているのであります。
奇しくも雲松寺というお寺で現在住職をしております私の道号(頭の2文字)は『耕雲』であります。得度(出家)の際に先代に頂戴した名であります。先代はどういう想いでこの名を私に下さったかは聞いたこともないですし、未熟者の私には真意は測り知ることは出来ませんが、これから来る未来に際して『雲松寺というお寺を耕すつもりで教化・護持を発展させて行きなさい』という想いがその一端にはあったのではないか?と個人的に勝手に解釈しております。
まさに今、當山は各種整備事業に着手し、物理的に雲を耕している所であります。この『釣月耕雲』の想いを大切にし、引き続きお寺の護持・教化の発展に取り組んで行こうと思った今日この頃でした。