4月27日に行われた韓国と北朝鮮の南北首脳会談の話題が世界を駆け巡りました。隠岐の島町を所管する宗務所の役職員の身としては、南北の融和ムードを歓迎する一方で、板門店で金正恩委員長が文在寅大統領の手を取り、易々と国境線を行き来した光景が、竹島(独島)でも実現したなら、と夢想せずにはおれませんでした。
一方、日本国内に目を向けると、話題はもっぱら「セクハラ」。
世界的な「♯metoo」運動の盛り上がり、前財務事務次官によるセクハラ問題。そして某アイドルの不祥事。特に、私の親戚がテレビ朝日に勤務していることもあって、会社としての一次対応の是非や様々なコメンテーターの解説を、強い関心を持って追っていました。
そしてだんだんと、この問題は私にとって「対岸の火事」ではない、と思うに至りました。
大勢の安定のために、異論や少数派の意向を看過する。現代の日本ではそれが「男社会」において顕著であること。そして少なくとも私にとってお寺は紛うことなき「男社会」であり、そうである限り、今日的なセクハラを助長する構造は、お寺にも当てはまるのではないか。
よく見聞きするのは、若い寺族に対して「後継者としての男児」の出産を期待する周囲の言動です。そればかりか、まだ子どもがいない寺族に対して「子どもができない体なのか」と耳を疑う言葉を投げかけられた、とも聞いたこともあります。
世襲に頼り比丘尼を育成する方途も乏しい宗門は、結果として寺族が理不尽に晒されやすい構造なのではないか、という疑念が止みません。
今回思い出した情景があります。
以前、あるお寺で盛大な祝事があった時のこと。宴席では集まられたお寺さんも檀家さんも大いに盛り上がり、長い法要が終わった高揚感も手伝ってか、お酒も随分呑まれていました。
とても賑やかな雰囲気の中、あるお檀家さんが一足早くお帰りになるために玄関に向かわれました。すると見送りに出てこられた寺族さんに対し、メートル上り切らんばかりのご機嫌な様子だったそのお檀家さんが、
「奥さん、今日は良かったね!」
と、寺族さんに握手を求められました。
でもその寺族さんは、表情に笑みは残してはいるものの、目で強い「意志」を示しながら、しかと後ろ手を組んで、断固として握手をすることを拒まれたのです。
握手するしないの押し問答が数回あった後、結局お檀家さんは握手することを諦めて「イヤー、まいったなー」と言いながら帰路につかれました。
何となくそのやり取りを見ていた私は、和やかだった雰囲気が一瞬白けたように感じ、篤信者でもあったそのお檀家さんが気分を害し、お寺との関係がこじれないか、むしろ心配になりました。
今になってよくよく省みると、素面の寺族さんが酒毒の害が及ぶのを警戒し予防するのは当然だし、そもそもまるで飲食サービス業のような接遇をする必要はないはずです。
でも当時の私は、
「握手ぐらいさせてあげてもいいのに」
と思いました。おそらく私と同じような感想を持つ寺院関係者もおられるかもしれません。それこそが一連のセクハラ問題の温床と同根だと、今回改めて気づかされました。
よく「開かれたお寺」と言いますが、その一方で境内を禁煙にするお寺も増えてきました。
艶っぽいやり取りや猥談(以下、通称〝スケベ〟とします)は一種の嗜好であり、コミュニケーションツールだと見なす「男社会の住人」は多い(私も含めて)ですが、今後はスケベもタバコと同じように、TPOを問わず公共空間から追いやられるかもしれません。
お寺も「葷酒山門に入るを許さず」だけではなく、そのうち「スケベもまた入るを許さず」と標榜することになるのではないでしょうか。少なくとも女性に開かれたお寺は、そうあるべきです。(教化主事 板倉省吾)