二つ三つの守ること(板倉人権主事)

6月の中旬、中国管区の人権啓発研修会が開催され、会場と企画運営を島根県第二宗務所が担当しましたが、運営の中心となるべき人権擁護推進主事の私が、会期の1週間前にコロナに罹患。軽症ではありましたが、当日の参加を見合わせざるを得なくなりました。

それまで段取りを整えていた私にとっては痛恨事でしたが、直前に「丸投げ」したにも関わらず、宗務所役職員のみなさまにご尽力で、大過なく研修会を終えることができました。

研修会のテーマは「戦争と人権」としていました。詳細についてはすでにホームページなどで報告していますので、そちらをご参照いただきたいと思いますが、2日目の講師をお願いした駒澤大学名誉教授の石井公成先生から、それまで担当として事前交渉をしていた私宛にと、一冊の本を役職員に託かっていました。

 

書名は『中江丑吉の人間像―兆民を継ぐもの』

すでに絶版となっていますが、石井先生は古書を20冊ほど購入され、「過去を調べ、現状を冷静に判断する」ための手本になると、若手の研究者などに授与されていたもので、残り2冊となったうちの1冊を、もったいないことにも私にいただける、とのことでした。

結局石井先生から直接受講することは叶いませんでしたが、正に「向かわずして聞くは肝に銘じ魂に銘ず」、とても大きな学びと諭しを授かった気がして、今でも本を手にすると身が引き締まります。

 

題名から察しがつくように、この本で取り上げられている中江丑吉(1889-1942)は明治の政治家で思想家だった中江兆民の子。

中国学者として人生の多くの時間を過ごした北京の地で、日中開戦から世界大戦までの進行を観察しながら、学識者として知見や、さまざまな客人たちとの交流、自分の生活や北京における環境変化の分析、例えば白菜の値段があがったと聞くと、「北で軍隊が動いているな」と察するなど、世界大戦の趨勢がまだ定まらぬ頃から、世界史の事跡や今の国力の相対評価を踏まえ「狸がのぼせて機関車めがけてぶつかって行くようなもの」と皮肉りつつ、日本やドイツの敗北を予見し、終戦の3年前に亡くなりました。

そして戦時下という非常時でも、「大衆は二つか三つどうしても守ることを決めておいて、あとはできるだけ普通にやる」と、努めて平時と変わらない日常生活を送り、やがて次のようの言葉を残しました。

 

「無名の個が、考えようによっては単純無意味な日常生活とまともに取組み、その限られた狭い生活面を過(よ)ぎるあらゆる事象に対して、観察と判断と働きかけを怠らないとき、〈中略〉生活の尋常性を重んずる健康な頭をもった無名の個-自覚した大衆(マッセ)-が、邪悪や迷妄や不合理に対して「精神の自由」を守ることにおいて、いかに微動もしない人間的高貴を具備するに至る」。

 

父・兆民がそうだったから、とは言いませんが、やはり丑吉も今で言う「リベラル」な気風が強かったことが伺えます。そんな丑吉のことを、憲兵らは「北京の城壁にへばりついて聖戦を白眼視する非国民的なスネモノ」と呼びました。

「虎の威を借る」かのような国家主義に彩られた大勢の中、情報や世相に流されず「芯」を失わない。今で言う「リテラシー」の必要性を強く説いた丑吉の知見と姿勢は、ネット情報のるつぼである現代でも学ぶべきものではないでしょうか。

それは逆説的に、社会生活の中で確固たるリテラシーを発揮し、且つそれを体現することが、いかに困難かを裏付けている、とも言えそうです。

現に戦時中、多くの僧侶が仏教の教えを換骨奪胎し、禅であれば「大死一番、大活現成」といった死生観を、社会恩や皇恩に報いる手段として広めたことが、戦意を保続し、在郷の若者を戦地に送る根拠となりました。丑吉が言うところの「二つ三つの守ること」の分別すらつかない状況だった、と言えます。

 

かく言う筆者とて、もし戦時中に生まれていたら、「非国民」や「スネモノ」のレッテル貼りを潔しとせず、多くの先人と同じ「過ち」をしていた可能性が高い。

今の時代に生きる私たちだからこそできる、「過去から学び、過ちを繰り返さない」という誓い。これは過去の否定ではなく「過去を活かす」ことにもつながるはずです。

「社会関係資本」でもあるお寺・僧侶として、多くは社会と足並みを揃えたとしても、そして仮に社会の風向きが変わっても、熱狂や自己拡張から距離を置きながら、「二つ三つの守ること」が何かを弁え、、今ある日々の暮らしを丹念に紡ぐことを、心がけたいと思います。

(人権擁護推進主事 板倉省吾)

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