古に戻る(佐藤副所長)

現代において、分からなくなったこと不明になったことを、元々の環境を理解することによって解るということが良くあります。

例えば、梅湯の湯串は湯飲み茶碗に乗せるのか、それとも茶托に置く方が良いのか。などとたまに質問されます。

まず、「僧堂は裕福ではない」ということから理解を始めます。あと、大人数なので余計な器物を使いたくないこともあります。僧堂で大衆が梅湯を頂くとすると湯飲み茶碗が配られ、蜜湯が配られた後、湯串は置くところが無いので湯飲み茶碗に乗せることになります。そのうち裕福に成ってくると茶托を付けるということが行われ、湯串は湯飲み茶碗の上でも茶托の上でも乗せられるようになります。次に湯飲み茶碗に蓋が付きます。そうすると湯串は湯飲み茶碗の上には乗せられなくなり茶托の上に乗せることになります。しかし、飲む時には蓋を取ります。そうすると湯串はどこに置こうかと悩むということになります。

まあ、元々置くところが無いから茶碗に乗せていた訳ですから、どちらでも良いように思います。すわりの良いように置けば良いのでは無いでしょうか。

尚、梅を裂いて適当な大きさにして、割箸に挟んで出すというのは、大人数に対応するには良い発明ですが、逆に必ずそうしなければ成らない訳ではありません。例えば梅が一口サイズなら、湯飲み茶碗に直接入れて長めの楊枝を添えれば良いのです。割箸の発明は江戸時代になってからですし、湯串と言うくらいで串です。

只、口を付けた方を他人に向けるのは失礼に当たるということになるので、口を付けるほうは、飲む人の方を向けます。これは、応量器の作法の基本です。

そもそも、梅湯は現在のドリンク剤です。よく、蜂蜜成分配合とかクエン酸添加とか言ってますがそれは梅湯を参考に作っていると思われます。

 

また、別の質問で。葬儀は火葬の前にするか、後にするのかと言うことがあります。

本来でいえば、火で焼くが火葬であり、土に埋めるのが土葬なので、同時というのが正解です。

実際少し前まで、墓場で葬儀をし、土に埋めて、その場で引導を渡すということをしているところがありました。しかし、会葬者の面前で火を着けて焼くと言うわけにはいかないので、どちらかにずらすことになります。

土葬の流れからすると、葬儀の後、火葬ということになると思います。この近辺では平成の合併まで結構土葬があったようですが、松江に火葬場が出来たのは大正時代と聞いています。その頃の環境を考えながら火葬をするとなるとどうでしょうか。

当時は乃木福富のパナソニックのあたりに火葬場があって、薪で遺体を燃やしていたそうで、焼き上がるまで6~7時間かかったと聞きました。そうすると午前中に葬儀が終わってから遺体を荷車に乗せ移動し火葬し納骨まですると夜中になってしまいます。僧侶や講中が解散できるのはかなり夜更けということになります。それでは大変なので、早朝から火葬をして夕刻より葬儀をするほうが早く僧侶や講中が解散できると考えたと思われます。

あるいは火葬場の職員は公務員ですので勤務時間の問題だったかもしれません。

以前京都で親戚の葬儀がありました。京都は「羅生門」の昔から火葬が行われていた所です。葬儀の後、火葬場に行きましたが京都は結構火葬場が遠く道中に時間がかかりました。火葬自体は一時間あまりですみましたが、その後寺に帰ってから七日法事という流れでした。その間僧侶も拘束される形になるので、大変だなと思いました。おそらく京都のほうは古くに、火葬がすんでから後日、七日法事をするという流れから、火葬がすんでから親戚が帰る前にその日のうちに七日法事するというふうに変わったのでそういう流れになっていると思われます。

松江のように葬儀の後、七日法事をしてから火葬というふうになったのは近年、世間が忙しくなってから変わったので受入れられやすかったのかもしれません。

特に、作法について疑問が有った場合は現在の環境にとらわれず、少し過去にさかのぼって当時の環境を考えると答えが出てくることも有ります。

副所長 佐藤良元

ページトップに戻る