大本山永平寺本山参拝を終えて(岩田所長)

 今年の永平寺本山研修会は、久しぶりの参加でした。永平寺は平成28年御征忌の焼香師以来でありました。今年参拝をし安居者が60数名と聞き、かつて私が安居した時は同安居者が120名近くおり、古参和尚も多数残り180名近く安居しており、配役面でも余裕ある配役でありましたが、現在は修行僧一人当たりの負担も相当のものと感じました。
 まだ、減っていくことも考えられますが、日々の行持、参拝者,参籠者への対応が難しくなっていくのではなかろうかと危機感を覚えました。総持寺にても同じことが言えるかと思います。本山に於いてもこのような状況でありますので、地方僧堂に於いては更に厳しい状況でありましょう。宗門の重要な位置を示す永光寺さえも近年安居者がなく閉単中であり、堂長老師と近隣の寺院の協力により維持されている状況であります。今宗門では僧堂改革が進められ、全僧堂を一旦閉単とし審査の後再認可、開単される運びとなっています。 堂長老師の話では安居者の確保、財政の面で再認可は難しいとのこと、ただ、師家養成所の会場に予定されているようなので、大いに利用価値を高めて頂きたいと願っているところであります。
 祖院には平成19年の能登半島地震後1・2年経った、まだ復興が始まったばかりの頃以来の参拝でした。工事もかなり進み2・3年先には完工するようですが、順調に復興が進んでいること嬉しく思いました。
 総持寺では今年石川素童禅師の100回忌を迎えています。祖院が当時大本山であった頃の大被害といえば明治31年の大火で境内にあった70余棟の大半を失ったといわれております。この時の住職は畦上楳仙貫首で監院であった石川素童師がその後の復興の中心となられ、後に貫首となられた石川禅師であります。
 翌32年には、永平寺森田悟由禪師と畦上楳仙禪師の連名で再建につき、「末派寺院及び檀信徒に大工事を迅速円満に落成せしめんことを望む」との告諭、また曹洞宗宗務局も「一宗協力この大工事を達成せしむるよう」との布達を出し、本格的に再建に取かかることになりますが、この時期は本山移転とまでは考えていなかったといわれています。
 しかし、34年畦上禪師が退董、西有穆山禪師が貫首となっておられますが、何故この重要な時期に交代があったのか不思議な気がします。更に38年には西有禪師が退董され、石川禪師が貫首となられ、引き続き再建の中心となって尽力されています。
 この間、永平寺では道元禅師650回大遠忌が修行され、37年~38年には日露戦争が勃発し寄付金を集めることは困難で、一時停滞せざるをえなかったようでもあります。
 当初は、再建はあくまでの現地での計画であったが、火災後の翌32年には既に関東地方の寺院、檀信徒から再建は東京に移すべきとの請願書が総持寺貫首に提出されていたようで、徐々に移転の機運が高まり、日露戦争終結後、本格的に議論され両本山関係者、宗議会
議員等で移転の件の賛成を得て、宗内の協力を取り付けたとされています。
 当然地元を中心に反対運動も起こり、非移転同盟会を組織し反対運動の拡大を図り、石川県信徒大会を開き本山移転反対を決議し、内務大臣・石川県知事に陳情書を提出した、一方で総持寺は本山移転願書を石川県庁に提出しています。
 反対運動は、かなり過激で石川禪師が石川県・富山県内の曹洞宗寺院に移転説明をするため、本山に向かう道中反対する青年が、禪師の人力車と間違えて一台の人力車を襲撃し、崖から転落させるという事件も発生し、石川県内の岡田泰明住職が犠牲になっています。
 40年1月には県知事の斡旋により移転問題は解決していますが、地元は、総持寺の別院とする。本山からの支出金と能登地方からの寄付金を建築費にあてる。本山の建築費を募集しない。末派寺院と同列に扱わず特殊な地位におくこと。別院の住職は本山貫首が兼務し退董後は隠棲の地とすること。こうした条件を本山側が認め、能登に七堂伽藍を建立することになりました。
 43年には大祖堂・放光堂、大正元年に客殿が落成、その後山門・僧堂他諸堂が完備されるに至りました。
 鶴見移転の手続きが終わったのは、44年のことであり、大火から14年目のことであり、11月には、完成したのは放光堂・伝灯院・跳龍堂のみであったが、移転式大法要が巌修されました。14年の永きに亘り、再建・移転に中心となって尽力された石川禪師のご心労は相当のものがあったと思いますが、今、総持寺が大本山としての威厳を保ち、都会地にあって檀信徒、地域住民の心の拠り所となっている姿を見るにつけ、移転の英断を下された禅師の功績に対しあらためて敬意を表し、100回忌にあたり品位を増崇したいと思います。
 大正9年11月16日に遷化  「勅特賜大円玄致禅師牧牛素童大和尚」

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