政教分離が隔てるもの(森田書記)

江戸時代の伊予の国松山藩筒井村、現在の愛媛県伊予郡松前町(まさきちょう)に、作兵衛(さくべえ)という農民がおりました。

作兵衛さんは貧しいながらも勤勉な性格で、昼は田畑で米や麦づくりに励み、夜は縄を綯ってわらじを作るなどよく働きました。

享保17年(1732年)、西日本全体が大飢饉に襲われました。3か月も、雨の多い天気の悪い日が続いたうえ、夏になっても気温が上がらず、稲が育ちませんでした。

野に青草が一本もなしと言われるほどの被害で、食べものがなくなり、松前地区で餓死する人が800人を超えました。

作兵衛さん一家は父作平、長男作市も餓死、母と妻も既に亡くなっており、家族は作兵衛さんと娘のカメだけになってしまいました。

それでも気力を振り絞って田畑に仕事に出かけていた作兵衛さんでしたが、ついに倒れてしまいました。幸い仲間に助けられ、家に戻る事が出来ました。

作兵衛さんの家にはおよそ一斗(18リットル)の麦が残されていました。周囲からはこの麦を食べることを勧められましたが、作兵衛さんは「農業は国を支える大切なものです。作物の種は農業のもとです。村に麦種がなくては、来年、田に麦を植えることができません。麦種は自分の命より大事です。」と人々に伝えられ、享保17年9月23日、ついに亡くなってしまいました。享年44歳でした。翌月には長女カメも餓死し、家族全員が飢饉の犠牲になりました。

村人たちは作兵衛さんが残してくれた麦種を分け合って蒔き、翌年は豊作になりました。

作兵衛さんの事は村山藩に伝えらえれ、藩の命令で「義農」と名付けられた作兵衛さんのお墓が建立されました。

安永5年には、作兵衛さんの生き方に感動した松山藩主松平定静により、碑文が作られました。

その後も、人々は作兵衛さんの生き方を見習い、後世に伝えようと義農神社を作り、毎年4月23日に義農祭を行っています。

― 松前町ホームページより一部抜粋 ―

 

自己を顧みず、村の未来の為に麦種を残した作兵衛さんの生き様が胸を打つお話ですが、現在この作兵衛さんをお祀りする義農神社が困った状況になっているとニュースになっておりました。

この義農神社ですが、現在は天井に穴が空き、床は朽ちて抜けかけている状況、老朽化が進み傷みも目立ってきているものの、管理者が15年以上前から不在になっているうえ、町は「政教分離に抵触」する恐れがあり、修復できない状態にあるといいます。

 

義農神社は、地元の有志らによって1881年に最初の建物が建立。現在の場所にあるものは1957年に建立され、町長や地元の経済界の人らで作る「顕彰会」によって管理されてきました。

しかし、顕彰会は2007年に解散。現在の管理者は不明となっています。更には建物の所有者も不明。町は憲法の「政教分離」に抵触する恐れがあり、手が付けられず。という状態。

 

政教分離の厳格な適用が、地域の歴史や文化の継承に制約を生んでしまうことがよくわかりますが、義農神社は単なる宗教施設ではなく、義農作兵衛の精神を称え、地域のアイデンティティや歴史を後世に伝える象徴です。

宗教施設たる寺社仏閣等でも重要文化財等に指定されれば、文化財保護の名目で自治体が補助金を間接的に提供したり、民間企業と修復をするケースもありますが、義農神社の場合はクラウドファンディングや新たな管理団体の設立など国や自治体に頼らない形での修復を摸索していく事になるのではないかと考えます。

しかし、法律の解釈次第では資金の柔軟な運用も可能ではないかとも考えられます。

作兵衛の物語は地域の誇りでしょうし、道徳的、教育的にも素晴らしいものです。松前町も「このまま放置できない。解決策を探りたい」と声明を出しているので、良い着地点があることを願ってやみません。

書記 森田大裕

松前町のホームページで、義農作兵衛の紹介アニメが見られます。

まさき動画コーナー(旧ホームページ掲載分) – 松前町公式ホームページ|四国・愛媛 まさき

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