最近、メディアで盛んに取り上げられている「墓じまい」や「永代供養」。
私のお寺でも
「墓じまいをして永代供養を考えているのですが」
というご相談を受けることが増えてきました。
しかし、「永代供養」をするには、事前に注意が必要です。
このようなご相談を受ける際、私は即答せずに、相談者にいくつかの確認をさせて頂いています。
まずは「祭祀者ついて」です。
その家なり故人に関わる祭祀を担う権利を持ち、墓や仏壇といった祭祀財産を承継する人のことを「祭祀者」と言います。現在は「指名」や「慣習」で人選するとされ(一般的には喪主や施主がこれに当たる場合が多い)、関係する祭祀の決定権者となります。
もし、相談者が祭祀者でない場合、その申し出が祭祀者の意向に沿うものかどうか、確認を取ります。
そして永代供養とは、祭祀者が自身の権利と財産を放棄し、供養先の寺院や墓地管理者にこれを移譲することを意味します。
「家督相続」だった旧民法では、一般財産の承継者が祭祀権を合わせて承継しました。簡単に言うと、「墓守りが、先祖伝来の家や土地を承継する」と言うことです。しかし戦後の民法改正で「法定相続」となって、祭祀権は一般財産から切り離されました。
法的にはそうなのですが、例えば一般財産を相続しながら、祭祀権は承継しないことの「道義性」が、ここで想起されます。
私はまず、祭祀者の意義についてお話し、「永代供養にすると、お墓や位牌の管理、年忌法要はしなくて済みますが、これによって被承継者(故人)と〝縁を切る〟ことになりますが、よろしいですか?」と慎重に問いかけます。
最近は、「子や孫に〝迷惑〟をかけたくないので、(自身の)永代供養をお願いします」というご相談を受けることもあります。
これも、上記の理屈だと「子や孫に財産を残さないから、供養してもらわない」という解釈になりますし、そもそも祭祀を「迷惑」と見なすところに、現代の弊風があるようにも感じます。
また大前提として、祭祀や供養とは、自分が自分に対してできることではありません。担い手は必ず祭祀者を始めとした自分以外の「第三者」です。その意思を確認していないのだとしたら「本末転倒」だとすら言えます。
祭祀者の次に説明するのは、
「墓じまいが、そのまま永代供養ではない。この二つは別の事案」
ということです。
「墓じまい」とは、文字通り墓を仕舞って処分すること。その理由には二つが考えられます。
①祭祀者が郷里から離れて暮らすことで、郷里にあるお墓が管理できなくなるため
②祭祀者が不在になるため
このうち①を理由にされる方には、現在の生活圏にお墓を移転して祭祀の継続可能かどうか確認し、可能な場合は菩提寺を変えていただくこともあります。
お墓の移転が難しい場合、ここで「墓じまい」が有力な選択肢となります。ただこの場合も、家墓や個別の墓を処分したあと、合祀墓に埋葬することで、祭祀自体は継続は可能となり、その意思や条件があるか確認します。
よく例えるのは、お墓が戸建てになるかマンションになるか、ということ。お墓自体がなくなるわけではないので、祭祀者によるご供養の機会が失われるわけではありません。合祀した先に墓参りはできるし、家に仏壇を祀ったり年忌法要をすることもできるのです。
昨今は、この合祀と永代供養が、語彙として混同されている節があります。
次に②が理由になる場合、祭祀者が健在の間は祭祀を継続して頂き、何らかの理由でそれが出来なくなった時点で、ここで初めて永代供養に移行させていただくと、説明させていただいています。
今、「永代供養」という言葉がもてはやされるのだとしたら、それは現代の「家族」のありようを、合わせ鏡のように映し出しているからなのかもしれません。
また、この「永代供養」という語彙については、僧侶や墓地管理者の間でも、解釈に差があることも事実です(「合祀」や「無縁」との混同。また「永代」の真意も不明確。)
ただ私としては、その形やありようは様々あるにせよ、「故人との縁や絆」それ自体を、みだりに絶って欲しくないという思いから、永代供養については慎重な取り扱いをしなければいけないと考えています。(教化主事 板倉)