親ガチャ、寺ガチャ。(板倉教化主事)

 先日、私より年長の方々との打ち合わせの席で、「親ガチャ」が話題に上がりました。

 

 ご存知ない方のために一応説明すると、ガチャとは抽選機の俗称で、「子どもが親や生育環境を選ぶことができない」ことを例えた、元々はネットで使われていた若者言葉のようです。

 親の経済状況や遺伝的な要素が良ければ「親ガチャ、当たり」、それらの要素に恵まれない、もしくはいわゆる「毒親」だったりすると「親ガチャ、はずれ」といった具合です(ちなみに、運に任せた抽選を表す「ガチャ」という用語は元々登録商標されており、本来は許可なく使えないようですが)。

 

 先の打ち合わせの中では「こういう言葉が流行る風潮は嘆かわしい」「安易に言うべきではない」という、主に若者の品性を質す論調が支配的でした。

 

 そのやりとりを聞きながら、私の脳裏にはある幼少期の記憶がよぎっていました。

 それは親に「なぜ子どもはできるのか」と問うた時に、「お前は橋の下から拾ってきた」と返答された場面でした。

 自身も人の親になった今では、親がなぜそのような物言いのしたのか、おそらくは核心を誤魔化したかったか、はたまた面倒くさかったのかと理解が及ぶのですが、幼心にそれを聞かされた時は、途端に自分が「根無草」なった気がして、悲しくなった一方で、かくれんぼや「プチ家出」の居場所として橋の下に行き着くのは、そういう理由だったのか、と妙に得心したものでした。

 

 よく考えると、「橋の下から拾った」なんて「親ガチャ」ならぬ「子ガチャ」みたいな話ですから、親の側も昔から同じようなことを言ってたのではないでしょうか(ポジティブに換言したら「コウノトリが運んできた」となる)。

 

 とある論客の方が「『親ガチャ』は雨の日に天につばするようなもので、それよりも傘をさすなり晴耕雨読するなりした方が生産的」と喝破していましたが、おそらくこれが「親ガチャ」論争の模範解答かもしれません。

 

 ただし、仏教的には「親ガチャ」には(「子ガチャ」にも)一定量の真実を含むとも感じています。

 私がかつて参学させていただいた南直哉老師(恐山菩提寺院代)は、ご講話の冒頭で、必ずと言っていいほど、

「人間は根拠もなく、いきなりボロッと生まれてくる」

 と前提を規定したから、ご自身の論述を始められていました。

 そのお話を聞いていた当時は、「ボロッと生まれる」という感覚がピンと来ず、

「世襲で寺の跡を継ぐ私と、在家から出家した南さんとは、出自への依拠の仕方が違うのかな」

と感じていました。

 ただその意味では、お釈迦様も道元禅師も、出家することで「親ガチャ」をリセットされた。

 仏教で説くところの「生苦」とは正に、この「実存する根拠の曖昧さ」に由来するところが大きいのかもしれません。

 

 この「〇〇ガチャ」は、他にも当てはまるものがありそうです。

 例えば、「寺ガチャ」。

 

 これまで、離郷による離檀があるたびに、私は「転居先で良い菩提寺に巡り合われるように」と念じてきました。

 元・檀信徒が、地縁のない土地で新たに菩提寺との縁を結ぶには、葬儀屋さんに紹介してもらうか、能動的に情報収集して精査するか、一か八かで飛び込むかしか手はないでしょう。これは正に「寺ガチャ」を回している状況だと言えるのではないでしょうか。

 「寺ガチャ、当たり」であれば良いのですが、そうでなく「寺ガチャ、はずれ」、例えば経費がやたらと高額だったり、住職の人格に問題があった場合のことを思うと、今までお付き合いがあった元・檀信徒のことがとても気がかりです。

 

 一方、いわゆる「檀家」として菩提寺との関係が強い檀信徒一家の場合、その家に生まれると、少なくとも葬送儀礼に関しては菩提寺の宗派に固定され、信教の選択ができないことになります。

 「うちの寺は良いよ」とか「うちの寺は問題がある」というやり取りは、割と地域住民の間ではよく交わされる会話だと思いますが、では「問題がある」寺を離檀して「良い」お寺に入檀できるかというと、実際はそこまで「自由」ではありません。

 ほとんどの場合は「問題がある」状態が日常となって、先祖からの菩提寺を変えずに「寺ガチャ」の運命を甘受しているのではないでしょうか。

 

 先日、ある方が離檀をされましたが、その理由が「子どもが宗淵寺(筆者の住職地)と付き合うつもりがない。親が勝手に選んだもので、自分の意思ではない、と言っている」というものでした。

 住職としての不徳にやるせなさを覚える一方で、その子どもさんの仰ることにも一理あるのかもしれない、と思いました。

 うちのお寺では特に契約書や「入檀証」があるわけではなく、あくまで口約束と信頼によって、施主との寺檀関係を持っています。

 施主や祭祀承継者が、個人で信教の有無に主体性を持つことは、大いにあり得ることで、それに抗うのは旧弊による抑圧にもなりかねません。

 

 そんなやり取りがあったことも影響して、秋のお彼岸、私のお寺では毎年塔婆供養を行いますが、昨年まで板書していた「〇〇家先祖代々精霊」の文字を、今年からは「〇〇氏供養之精霊」に改めることにしました。

 「先祖代々」の供養をしないわけではなく、どういった枠組みで供養するかも含めて、当代の施主との関係をより重視したい。後代については、代替わりごとに寺檀関係を更新するか、その都度施主の意思を確認する。そんな思いがあってのことです。

 

 親もガチャなら、寺もガチャ。なんだか世の中がとってもガチャガチャしているようにも思えます。

 少なくともお寺側としては、施主が祭祀の選択をする際に、それが能動的にせよ受動的にせよ、「寺ガチャ、当たり」と思われるような態勢を整えておく必要がありますし、その姿勢自体は、今も昔も変わっていないはずだと思います。

(ちなみに、私のような寺に生まれた子どもにとっても「親ガチャ」「寺ガチャ」はあったりしますが、ここでは割愛します)

 

(教化主事 板倉省吾)

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