本年度の特派布教巡回が、先日終了しました。
「特派布教」とは、曹洞宗管長猊下のご巡錫を、管長猊下から直々に任命された特派布教師が代行し、全国の教場を回って法話される行事です。
期間中、当宗務所管内は計3名の特派布教師が全18教場を巡回され、私も何回かご法話を拝聴しましたが、そのうちのある特派布教師さんが、演題を「ご供養」とされていたのに、私は特に強い興味を持ちました。
というのも、その数日前、全日本仏教青年会主催の『現代の僧侶を考えるワークショップ』が当宗務所会館で開催され、私も参加したディスカッションの中で、現代は葬送や死生観が多様化しており、少子高齢化や晩婚・非婚化も加速する中、家墓を継承することだけが選択肢ではいけないのではないか、というテーマが提起されました。無子夫婦や独身者にとって家墓を継承するのは負担が大きく、その意味では家墓そのものが、心理的ストレスの具現であり旧態然の象徴、そんなところまで話が進みました。
「もしかして、それって〝お墓ハラスメント〟ってこと?」
私は思わず声を上げました。話はそこで一区切りとなりましたが、「お墓がハラスメント(になりかねない)」という命題は、心に強く刻まれました。
私個人としては、葬送に選択肢(例えば自然葬など)があることは重要だと思いますが、伝統的な家墓がその対立軸として忌避されるものではなく、個々の選択肢に家墓があったとしても、等しく尊重されるべきだと思います。
しかし、我々僧侶が檀信徒に対して先祖供養の大切さを説く、それ自体は悪くないにしても、それを絶対無二の「根本法」のように扱うと、その話を聞いた檀信徒の中には、先祖の供養はしたいが、訳あって承継者がおらず無念だという「救われない」思いに駆られる人もいるのかもしれません。
良くも悪くも聖職者である僧侶が「権威」として機能する関係が成り立っている中ではなおさら、現代的にはもはや「お墓ハラスメント」とも言える構造になってしまう危険性があります。これは、往時の「水子供養」に関する説示や、地獄を引き合いにしたいわゆる「悪しき業論」にも似た「強迫の構造」を持つのではないでしょうか。
特派布教師さんのお話は大変素晴らしいものでした。ご自身の檀信徒が先祖を供養する上での浄行を例示され、それが先代から継承されたものであると説かれました。管長猊下が告諭で「相承」を説かれていることを踏まえたもので、そこに「ハラスメント」になり得るような要素は見受けられませんでした。むしろ、特派布教の教場に集まる聞法者の傾向を踏まえると、演題もお話の内容も対機として十二分なものでした。
その後、私は特派布教師さんと二人になった時に、「お墓ハラスメント」の話の筋をお伝えしました。すると特派布教師さんは「そういう視点はすごく大切」とした上で、檀信徒の中に、家で納骨ができる仏壇を求めた人がいて、住職としてこれを許容して祭祀を認めた、というお話をして下さいました。つまり、その特派布教師さんが相手によって柔軟に手段を駆使されている、そのことがよく分かりました。(ちなみに私の自坊では、施主が家でお骨を祀ることは、一部例外がありますが原則として認めていません)
お墓や供養の主体性は我々僧侶にあるのではなく、あくまでも施主や遺族にある。僧侶の「あるべき」や伝統のひな形を徒らに押し付けるのではなく、施主や遺族にとって何が一番の「安心(あんじん)」か。そのための最善の手段は何か。それを問い続け、対機に徹する姿勢こそが、現代の々僧侶には求められているように感じます。(教化主事 板倉省吾)