私のお寺がある東出雲町出雲郷では先ごろ、日本三大船神事に数えられる「ホーランエンヤ」が10年ぶりに催されました。例年にない暑さとなりましたが、県内外の観光客も多く詰めかけ、大変な盛り上がりの中、5月26日の還御祭をもって祭りを終えました。(その後も地元は事後処理が続いています)
当寺の檀信徒の大半が阿太加夜神社の氏子のため、この祭りについて当事者の方々のお話をお伺いする機会がこれまで多くありましたが、その中で印象的だったのが、祭りの伝承手段についてのお話でした。
今回、阿太加夜神社の氏子中は準備段階から撮影機材を利用し、アーカイブ化して、口承伝統である神事を安定的に継承できるように試みられたそうですが、神職さんのご指示もあって、特に神事の中枢に関する場面は、どうしても撮影できなかったそうです。
ある氏子さんは「今後は、祭りの内容や手順を標準化(担い手の家運や能力、場合によっては居住地域をも問わないように)して、マニュアル化して継承することが必要だ」と話しておられました。
その一方で、寺院でも秘仏があるように、宗教の核心を安易に一般化せず、直接的に触れる手順を難しくすればするほど、反比例して神秘性や聖性が増すのも確かです。特に永平寺の御真廟で奉職していた私には、神職さんが記録をしないよう指示したお気持ちも背景も、よく理解できます。
さて、この聖と俗をどのように均衡させて継承に繋げるかという話、私は「曹洞宗がなぜ両本山制なのか」というテーマにも通じるな、と思って聞いていました。
「世俗の紅塵 飛べども到らず」として、聖に重きを置いて徹底して守ろうとしたのが、先に建立された永平寺。
その永平寺から分れて(正確には直接永平寺から分かれたわけではありませんが、詳細は省略します)、聖を拠り所としながらも、より教団運営の関与者を増やし、時宜を踏まえ、俗との接点を多くした開放的な家風が、教団の安定化につながった總持寺。
対照的とも思える二つの手段を択一せず、その象徴としての両本山を共に奉戴して両輪としたのが、曹洞宗における組織運営と継承の「叡智」だった、という言い方もできると思います。
今月の檀信徒本山研修会では、大本山永平寺と能登の大本山總持寺祖院(鶴見總持寺の元寺)、さらには瑩山禅師の活動拠点となった羽咋・永光寺を拝登し、両本山制成立の経緯たどり、聖道門とも出家教団とも言われる曹洞宗が、なぜ全国に約15,000ヶ寺(公称)もの教線を誇る大教団となり得たのか、その由縁を探る旅になります。(教化主事 板倉 省吾)