1%(教化主事)

 毎月17日は、うちの寺の観音講の恒規法要があり、講員(信者)の方々がお集まりになられます。法要が終わった後、私は「法話」と称した駄話を、10年以上続けています。毎月話すとなると、話材を増やすために時事問題を取り上げることも少なくありません。今月は「出家」について取り上げました。
 あくまでも私個人の所感として、「ここ何週間かメディアで取り上げられている例の出家騒動は、宗教性云々の話というよりも、単に2つのムラ社会(芸能界と件の教団)が、互いに排他性を戦わせているに過ぎない。本来の出家とは、あらゆるムラ社会から超脱すること」というものでした。やや下世話な話材を入り口にしながら、仏教的な概念や語彙を整理して説明した上で、今日的な「不寛容な空気」にも通じる構図と、それを反面教師として客観視することが「俯瞰的な寛容性」を養うことになる。そんな内容を狙って話しました。
 その後の茶話で、あるお一人の講員さんが「なぜ、今日この場で、あのような話をされたのか、意図が分からなかった」と感想を漏らしておられました。私にとっては時宜に適うと思われたものでしたが、私が情報を仕入れる過程が主にネットやテレビであり、普段そういった媒体に接しない方にはピンとこない話材だったのです。その方には、改めてこちらの意図を説明しましたが、そんなことがあった日の夜、私は以下のようなニュースを目にして、思わずゾッとしました。

『「心打たれる」1% 話術磨くより信心涵養を』(中外日報より)
http://www.chugainippoh.co.jp/editorial/2017/0217.html

 記事によると、浄土真宗本願寺派さんの調査で、法話に心を打たれた人の割合は、聴衆のわずか1%、だというのです。
 調査の前提や条件に差異があるので、私の法話にそのまま当てはめることはできませんが、それにしても1%というのは・・・。
 テレビの視聴率なら、とっくに打ちきり。うちの観音講のお参りが、大体20名から30名として、1%だと、あの日あの場所にいた誰一人として感化できていないことになります。
 これを以て「一箇半箇」とか「千里の道も一歩から」なんてポジる人がいたら、それは病的に呑気だし、私は、問題の本質はそこではないと思います。
 記事では、聞法者(信者)の日常生活全体を照らすような宗教心の涵養が必要だと指摘されています。しかし私は、これは話し手である私たち僧侶にも向けられた問題だと捉え直さないと、わずか1%の実効性しかない法話は、すぐに「オワコン」(終わったコンテンツ)になると思います。

「お坊さんが一番、仏教を信じていない」。
 昔、とある著名な文化人類学者が僧侶向けの勉強会でそう直言したのを聞いて、当時は反発心を覚えたものでしたが、今になって、ようやくその真意が分かってきた気がします。
 現代の聞法者は、知性も社会的地位も上がっている分リテラシーも高く、借り物の言葉や〝偽者〟はすぐばれる。そのことを言っていたのでしょう。僧侶が法話を発露するまでの、日常生活に裏付けがどれだけあるか。法話は身体言語であり、身心言語なのです。

 1%は可能性ではなく不可能性、オワコンへのカウントダウン。そんな土俵際からの反転攻勢できたら、法話にも次なる活路が開けるのではないでしょうか。

 まあ、少し言い訳をするならば、私は『仮面ライダー』シリーズを愛好しており、毎週日曜日の朝は居住まいを正して、欠かさず番組を鑑賞しています。件の女優さんも『仮面ライダー』出演中から、まるで親戚の子のように活躍を見守ってきました。過日の法話的駄話は、そんな日常と赤心を吐露した、私にとっては紛うことなき身心言語でした。間違いない。(教化主事 板倉省吾)

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